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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第22回 池は出来た。小魚を放った。

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。自分の土地に果樹園や庭園をつくることに熱心な助次は、池を完成させ、魚を放ったことを報告する。大きなトラクターも買い、さらに住宅も建設すると夢を語っている。周りの人から何と言われようと、自分の進む道を行くという。

* * * * *

〈日本からは年賀状一つ来ず〉

1964年1月15日

美さん、小包、今日うけ取りました。色々珍しい品、本当にありがとうございました。今年は日本からは年賀状一つ来ず、予期してた事ながら天涯孤独、寂しさを感じさせられました。

Xマスにはお隣へディナーに招かれ、ターキーを御馳走になりました。他の二人の友人(白人)からも招待されましたが、行けませんでした。私は毎日畑へ出かけてますが、 此処、二、三日急に寒くなったので、家にずっと居ります。年のせいか、夜、(華氏)三、四十度に下がると、とても寒く、ヒーターなしでは眠れません。北部は大変な寒さで死人も既に百人以上との事です。

日本は社会も変わり、人情もすっかり変わって、明治生まれの一世が折角帰国しても、がっかりするのは無理もありません。「日本へ行って来たか」と、私はよく聞かれます。「行く、行く」といって十年近く、どうやらこのままになりそうです。

植えておいた木等はすっかり切り取られ、忘れられぬ人の消息も今は途絶え、張り合いがないのです。昨今、とんと食欲がなく、何を喰っても味がせぬ。お茶漬けに片寄る為か、目方がずっと減りましたが、気分は少しも変わりません。毎日、畑に出かけ色々と計画しております。

池は出来た。小魚を放った。来年のこの頃には大きな鱒が取れる。大きなトラクターも買った。これからは暇に任せて造園や住宅の建築、果実や熱帯植物の造林をします。私は寝ても覚めても夢に張り切って居ります。これがいつわらぬ私の感想です。では御機嫌よう。さようなら。

助次がつくった池の周辺は、その後公園化された。


〈一人者の病気は惨め〉

1964年3月

美さん、お手紙、落手。高血圧再発とか。年取ると思いもよらぬ古い病気が起きます。私も一ヵ月ばかりも例の関節炎で苦しめられました。足腰立たず、手の指は夜も昼もズキズキ痛んで、ペンも持てませんでした。一人者のこうした病気は実に惨めなものです。

こちら全くの天国です。近所の人達は続々引き揚げ、故郷へ帰ります。中には初めて逢って十年の知古のように親しくした人もあります。大抵60代だが70代の人もあります。再会は神のみぞ知る、です。


〈新潟地震を心配〉

1964年6月22日

美さん、お手紙ありがとう。忙しいのと別に書く事がないので、ついご無沙汰になったのです。当方、何の変りもなく日々愉快に過ごしております。気分は渡米当時のように希望に満ち、何かと計画しています。歳が歳ゆえ、何ほどの事が出来るか。せめて百まで生きればと、それのみを念じている次第です。

毎日、畑へ出かけ自然に接していると、孤独もさほど感じません。例の池も今は完成し、数千の小魚が泳いでいます。来年の夏ごろには尺余りのバスや鯰がとれる予定です。

新潟の震災(注1)には驚きました。地方の事だったので死傷者も少なく、不幸中の幸いでした。日本は火山国、いつ震災に襲われるか、わかりません。幸い南部フロリダでは地震は皆無です。

先週久し振りに遠乗りしました。西北へ二百哩の地点です。朝2時に発ち、11時ごろ無事帰宅しました。この地方へは31年ぶりですが、ほとんど変化のないのには驚きました。

(注1)1964年6月16日に起きた震度5の地震。日本海の粟島付近が震源。地震規模は大きかったが死者は僅か26人。

 
〈渡米の時買った靴の思い出〉

新聞や雑誌の記事には誤りが少なくありません。故国の発展は全く世界の驚異。今は敗戦国でなく、世界の日本です。余り調子に乗らず、しっかりやって貰いたい。近頃、何処に行っても日本製品が氾濫。これでは同業者が騒ぐのも無理はない。先達ての雨降りで長靴を一足買った。二、三回、水に入ったら底が離れた。見かけは好いがこうした不良品も時にある。

思い出すのは、渡米の際、神戸で買って貰った靴だ。船中で底が離れて困った。底は革ではなく厚紙だった。

毎年の事だが、この夏は少し暑いようだ。別に温度に変わりはない。やはり齢のせいかな、近頃は読書にも飽き、新しい雑誌が来ても読まずにほって置く事が多い。まだ日本雑誌「日本」を読んでいる。言葉がへンテコで何が書いてあるか、判らぬ事が多い。

日本の食料品は何でもある。これは西部や北部の日系人の多い地方の事で、高い運賃を払って取り寄せても、案外まずい。私は一切使わぬ事にしている。

日系人には永い事、逢わぬ。逢っても別に話すことがないので逢いたいとも思わぬ。人間は健康で自分の好きな事をして暮らすだけで幸福だと思う。特に私のような孤独な者は、別に大きな家に住み、立派なカーを乗り回したいとも思わぬし、食物等も何でもあるので一食一菜、好物だけで結構。


〈相変わらずの原始的な生活〉

1964年7月20日

美さん、明さん、お手紙有難う。痛いのは実は腰ではなく、尻株なのです。痛み出すと座っている事が出来ない。立つなり横になって、力いっぱい両手でゴリゴリ揉むより外ないのです。両腕の方も矢張りうずきますが、大したことはなく、毎日、我慢して働いています。休んだら最後、動けなくなるという困った病気です。

筆子(妹)は永い間、病気で重態との事、驚きました。あんたもご存知の事と思います。日本は全般的に涼しいとの事ですが、こちらは逆で南部フロリダは降雨で陰鬱ですが、一時は120度(約49℃)近い炎熱で一時は水キキンでした。別に書く事もないのでこれ筆を止めます。くれぐれも無理をせぬ様にして下さい。さようなら。

(追伸)

私は相変わらず原始的な生活をして居ります。腹が空けば喰い、好きな物だけを喰い、疲れたら夜昼の別なく、どこででも寝る。時には三日も四日も食欲のない時には茶漬で済まします。

小さなトレーラーに住み、勿論、自炊で洗濯も自分でやる。カーも小型のピックアップだけで畑への往復の外、用はない。畑に移ることにしていたが、畑の一人住まいは危険だとの友の忠告の為、中止することにしました。

こんな現状ですが、これでも時々旧友や知人の訪問をうけます。その節はホテルへ招待しレストランで御馳走します。見苦しいなりをしていると思われでしょうが、ヒゲは毎日そり、シャンとしたなりをして居ります。もっとも畑での土いじりのときには着替えます。前に話したかもしれませんが、念の為に書き添えて置く事にします。


〈宮津に新聞はないのか〉

1964年11月14日

明ちゃん、あの日、朝手紙を出しにポストオフイスに行ったら美しいハガキが来ていた。折よく手紙を封していなかったので一寸書き添えて置いた。俗に金の切れ目が縁の切れ目という。金を送らぬので、もう日本からは便りは来ないものと思っていた。今、私は何も言わぬが、何時か、私の真意が解かる時が来ると信ずる。

あの日の夕方、畑へアヒル(11羽)に餌をやりに行った。チーチーと呼ぶと皆池から上がって来て、先を争ってやって来る。その走りぶりが実にコッケー(滑稽)で思わず吹き出したくなる。池の魚もぐんぐん太って来る。来年の夏ごろには一尺位になる。

こちらも秋らしくなった。夜になるとブランケットが欲しい位だ。この夏は15年ぶりに2回も台風に見舞われ大損を蒙った。まだ3回目の植え直しをやっている。

宮津は如何だ。よく出かけるだろう。秋や冬の宮津はさびしい事と思う。何年経っても故郷は恋しいものだ。宮津も市になってから既に数年、まだ新聞がないとの事、常識では到底信じられぬ。

学校や官舎の新築も結構だが、この競争の激しい時代、避暑地で新聞なしでは発展は望めぬ。宮津にはもっと頭のある人間が出なくては将来が危ぶまれる。宮津にも一時、中々いい新聞があった。それがわずかの間に二つになり三つになった。が数ヵ月で悉く廃刊。わかり切った事だ。新聞を読む人の数は定まっている。一つで沢山であり、市で一つ以上の発行を禁じればこの弊害は防げる。何故やらぬのか。

明ちゃん、失敬、何の関係もない他国の人がこんな意見を吹きかけてもどうもならぬ。私の頭もどうかしている。これも愛する郷里の為で。余白がない故、今日はこれで筆を擱く。さようなら。


〈自分よりほかに頼れるものはない〉

1964年11月5日

明ちゃん、バースデーカード今着いた。ありがとう。何かと多忙なのと別に書く程の珍しい事もないので、つい返事が伸びた。写真では大別嬪変になった。気を付けて喰い過ぎないように。お母さんがいいお手本だ。

どこの国でも女性は40代になると、そろそろ太りだす。とくに上流社会ではうまい物は鱈腹食べ、酒は飲む、煙草は吸う。家庭は人任せ。何一つしない。動かすのは指と口丈だ。これでは嫌でも太らざるを得ない。豚のように太り、家鴨(アヒル)のように歩く様は如何、欲眼に見ても褒められた図でない。

明ちゃん、お金は、なによりうるさい。肉親相反し法廷で争う。お金は魔物。余程しっかり握っていないと、知らぬ間に逃げ出してしまう。今、流行のかけ買い(後払い)も悪くはないが、うかうかすると、つい、いらぬ物まで買ってしまう。

収入は多くなくとも借金をせずに。つまり収入内で暮らすという事だ。勘定高いこの国の奥さん達は一仙(セント)、二仙を争って店から店へあさり廻る。

お母さんは明子の費用は給料だけでは足らぬとこぼすが本当だろうか。私にはどうかわからぬ。あんたも一人前の女になったのだから、人の言いなりになっておらず、しっかりしないと馬鹿な目を見るぞ。常に頼りになるのは自分より外にないという事を忘れぬように。

今日は11月5日で、私の生まれた日だ。仕事を休んで手紙を書く事にした。私は至って健康、毎日畑へ出かける。目下、果樹の植え付けで忙しい。人は馬鹿だというかもしれないが、人は人だ。何とでも言え。これは私の幼いころからの希望だ。何としても実現させたいのだ。

追伸 古い一世はほとんど死に絶えた。残りは二、三人。どうやら私は最後になるらしいが、せめて百まで生きたいものだ。

(敬称略)

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© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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