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フレッド牧野金三郎氏の伝記 -ハワイ報知社を通じて社会に貢献- ~その1

生い立ち

牧野フレッド金三郎は1877年8月28日横浜に生まれた。父は英国マンチェスター生まれの貿易商、ジョセフ・ヒギンボサム(Joseph Higgenbotham)、母は原籍、神奈川県足柄郡上足柄二の平の牧野キン。父は、1881年9月死去、金三郎が4歳になったばかりの時だった。

牧野金三郎の父、ジョセフ・ヒギン

混血児の問題は現在でも多くの問題を残しているが、1880年代の日本で、牧野のような日英混血児が生きていくことは決して容易な事ではなかった。幸いにして、母キンの温かい愛情と、横浜という国際都市で生活したことで、牧野は順調な成長を続けることができた。学歴のことは不明だが、一応、日英両語が、読み、書き、話せる程度のことは身につけた。

牧野が十代の終わりに達した頃には、長兄の牧野譲はハワイ島のナアレフで商店を経営するかたわら、牧野キャンプと呼ばれる何軒かの家作(貸家)を持つほどになっており、次兄の暎次郎は貿易商として横浜に店を構えて盛大に営業を続けており、金三郎以下、二人の妹、一人の弟(土屋精一)は、その保護下に、母キンを中心に一家を立てていた。

牧野金三郎の母、牧野キン

弟、土屋の思い出によると、金三郎は弟妹を良く可愛がる、温かい兄だった。一方、金三郎は柔道場にも通って、喧嘩早いことでも有名だったようだが、長唄もならったりして遊芸のことでも相当のところに達していた。

同じく土屋の思い出によると、

「明治の中頃までは横浜の商館の番頭といえば金回りがよいので、料亭はどこへ行ってももてたものだそうだ。唄もできるし、ちょっとしたお座敷芸もできる所から、兄は大いにもてたらしい、ハワイに来る動機もそれがたたった訳だ」

というわけだが、それは、たまたま、内外人の友人と吉原で遊んだ時、牧野金三郎がお座敷で大活躍、これが「萬朝報(よろずちょうほう)」という当時の大新聞に素っ破抜かれ、それを読んだ次兄の暎次郎はこんなことではいけない、ハワイにでも送って苦労をさせないといけないと判断して、長兄譲の処に金三郎を送り出したということだった。

これが牧野金三郎がハワイに移ってきた裏話である。時に牧野は21歳9ヶ月。1899年4月10日、ホノルルに到着、まもなくナアレフに行き、兄の店を手伝った。ついでコナ砂糖会社の帳簿係りをつとめた。

そして、1901年ホノルルを出て、ヌアヌ街角に「牧野薬店」を開設した。恐らく、次兄暎次郎の支援によったのであろう。そして、1903年4月、岡村道枝と結婚した。同じ頃、「牧野薬店」の二階に、「牧野法律事務所」を開設した。牧野金三郎は法律家ではないので法律事務所というのはおかしいが、当時は、日本人の法律家はいなくて、日本人移民の出入国問題や、離婚などの問題も相当数あり、相した問題で、交渉、調停などをするというほどのことだったようである。

ホノルル市ヌアヌ街ホテル街角に牧野薬局店を開業した。

1907年の日米紳士協約(ハワイから日本人労働者が米大陸に渡ることを禁止した)以前には、牧野は芳我日下らと、客船を雇い入れて大量に日本人労働者を米大陸に送り出したりしたこともあった。

第一回日本人ストライキ

1908年夏頃から各地の砂糖プランテーションで働く日本人労働者間に、増給要求の声が出るようになり、同年12月1日、増給期成会が組織され、1909年5杯8日、アイエア・プランテーションでストが始まり、オアフ島の各プランテーションが次々にストに突入し、8月5日復業宣言で終結するまで続けられた。

このストライキで牧野金三郎は増給期成会の総務委員長に選出され、スト指導の最高責任者となって献身的な活動をした。

1909年のストライキのときに投獄された牧野と他3名。田坂養吉(前左)、相賀安太郎(前右)根来源之(後左)牧野金三郎(後右)

このストでは、HSPA(ハワイ砂糖耕主組合)が当面の交渉相手だったが、実際の戦いでは、アドヴァータイザー、スターブルテン両英字紙、「布哇新報」、「布哇日日新聞」の両邦字紙。県・市両政府、及び駐ホノルル総領事上野専一を相手にする戦いだった。味方としては、「日布時事」一紙で、あとはプランテーションで働く労働者、ホノルル在住の日本人多数という無力な大衆だった。

ストそのものは、HSPAから何ら約束を取り付けることなく労働者側が復業して終結したのだが、その年の11月HSPAはほぼ要求道理の増給を断行して、ストの目的は達成されたことになった。

しかし、HSPA及び官憲の追及は厳しくて、いろいろな告訴状を作って、十数人の人々が逮捕され、裁判にかけられたが、結局、増給期成会の牧野金三郎、根来源之、「日布時事」の相賀安太郎、田阪養吉の4人は、プランテーションの営業妨害共同謀議の件で有罪となり、それぞれ入牢10ヶ月、罰金300ドルの判決を受けた。上告したが、県最高裁は1910年3月20日原判決を支持、同日4人は入牢した。しかし7月4日特赦され、罰金刑も免除されて出所した。

その2>>

*本稿は、ハワイ報知創立75周年を記念して発行されたものです。

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