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フレッド牧野金三郎氏の伝記 -ハワイ報知社を通じて社会に貢献- ~その5

>>その4

牧野のもう一つの面

牧野金三郎の仕事をたどると、牧野の持っていた強い性格だけが浮き彫りにされてくるが、彼は反面、非常な「情」の持ち主でもあった。今、その2、3の例話を書いておこう。

古いところでは、1909年のストの余波で、牧野は他の3人とともに数ヶ月、オアフ刑務所で過ごしたが、その時、同情者が多くあり、毎日、朝、昼、晩と食べ切れぬほど差し入れがあり、他の服役者にも分け与えたほどだった。牧野婦人も勿論、好みの食べ物を作って自ら届けたのだが、食べ物は受け取るが面会はできなかった。

刑務所側が許可しないのではなく、牧野自身が「女房の面会は相成らぬ」というのでどうにもならなかった。

1946年7月海辺で知人とくつろぐ牧野氏

なぜ面会しなかったのかという説明は、あとになって明らかになったのだが、それは、妻の苦労やつれした顔を見れば、不覚の涙を流さないとも限らないので、もしそんなことになれば、張りつめた気持ちで4人が一緒に頑張っているのに申し訳ないというのであった。明治青年の情と意気を示す話といえよう。

報知社では「牧野のオヤジの雷(かみなり)」といわれて、一日に一度は鳴り渡ったということだが、「ユウみたいな奴はあしたから仕事にくるなッ」と怒鳴りつけられた社員は、2、3日休んで仕事に出てくる。社長もその社員も心得たもので、「雷」のことはケロリと忘れて談笑した。

酒のことで失敗した社員がクビになった。勘気(かんき)が解けぬので、その社員の妻が誤りに行くと、牧野は本人を呼びつけて、「お前は同でも良いが、子供やワイフがかわいそうだ」といって復職を認めてしまう。そして、「どうも俺は女と子供はニガ手だ」と頭を振っていたという話もある。

田中絹代さんを中心に牧野金三郎夫妻。

牧野夫妻には子供はなかったが、牧野は大変な子供好きで、弟土屋精一の息子も非常にかわいがったし、マノア時代、自宅で手伝いに雇っていた藤瀬長太郎夫妻の3人の息子たちも大変かわいがられた。そうした縁故者の子供ばかりでなく、社員の子供たち、さらには、朝夕、会社への往復時、学校に登校、下校する子供たちの姿を見ると、車を止めて乗せてやり、誰のことも知れないのに、楽しく話し合ったということも伝えられている。

牧野は包容力のある人だった。編集長として縦横の活躍をした芳我日下は、1909年のストの時は「布哇新報」にあって、増給期成会の総務委員長の牧野にひどい攻撃を加え、散々苦しめた。また牧野が「ハワイ報知」を創刊した頃には、芳我は「日布時事」にあって、再び牧野と「報知」に論鋒(ろんぽう)を向けた。それなのに、1914年末には芳我を「報知」に迎えて厚遇し、二人は表裏一体となって協力し、「報知」をハワイ一の邦字紙に作り上げた。

また、後藤一二は、後、「報知」の主事になった人だが、1920年のスト後は、「布哇新報」にあって、「報知」と何度も論戦を展開し、全く犬猿の仲だったのに、これまた温かく「報知」に迎え入れて優遇した。

他にも何人もの社員が二度、あるいは三度も復職して働いており、牧野の人柄の一面が、こうしたことからもうかがえる。

故・牧野金三郎(1877-1953)

最後にもう一つ付け加えておこう。牧野は金のために動いたという一部の非難者たちから非難されてたこともあるが、この点について、創刊以来50余年「報知」で論説を担当した寺崎定助は次のように述べている。

「金本位ならば事を成しとげずに機会をみて巧く(うまく)抜けるか、中途でほったらかす筈(はず)であるが、日本語学校試訴などはまかり間違えば新聞社を棒にふる気で、六年もかかって立派にやりとげた。

新聞社のためには何の利益にもならない福永事件の再審運動や、助命請願運動などには手をつけない筈だと思います。私はハワイ報知創立当時から四十余年間も牧野氏と共に新聞に携(たずさ)わってきたので、主義主張に終始した人であったとしんじています」。

1972年8月16日に完成した現在の社屋

*本稿は、ハワイ報知創立75周年を記念して発行されたものです。

© 1987 Hawaii Hochi, Ltd.

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