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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/12/20/fred-kinzaburo-makino/

フレッド牧野金三郎氏の伝記 -ハワイ報知社を通じて社会に貢献- ~その4

>>その3

戦争中と戦後の牧野とその死

真珠湾に対する日本軍の攻撃が始まると、数百人の日本人、一部の日系人が危険な適正外国人として逮捕され、やがて米大陸の収容所へ送られた。

その中に、牧野金三郎は含まれていなかった。多くの人々には、大変奇異なことと思われた。しかし、FBIにより数次の尋問を受けたが、牧野を逮捕する理由は発見されなかったと伝えられている。

牧野は、戦争の始まる前までは、ハワイの支配勢力に対する、ほとんど唯一の抵抗者であり、鋭く厳しい批判者だった。しかし前記の通り、それは理由あってのことだった。牧野は無法者ではなかったし、無下に反抗したのでもなかった。また、無差別な日本主義者ではなかった。その主張、行動は常に独立独歩のもので、日本政府などとのつながりを示すようなものは全くなかった。米国に住むものとして、米国の民主主義の理想を、かたくなまでに守り通して人だった。

牧野はクリオウオウに住んでいて、都心から遠く離れていることを理由に、総領事館の集会には全く出席せず、任期の短かった総領事や領事の中には、牧野と一度も会わないで帰国した人々もある。また、練習艦隊の来航の際も、その歓迎会にはほとんど出席しなかった。そのため、「非国民」だと罵辞を浴びせられたこともある。

また、日本に帰国したのも、1912年、母危篤の報で帰国しただけで、その後、訪日しなかった。

さらに、1937~39年、ハワイの日本人は日本の戦時公積300万円を購入し、また、120万円の献金をしていることを踏まえて、牧野は、ハワイの日本人は、米国の公債をこそ飼うべきだと唱道した。この件については、牧野を「非国民」と罵った当山哲夫が詳しく記憶している。

もう一つ、FBI側にあった配慮として考えられるのは、もし牧野を十分な理由なくして逮捕すれば、戦後面倒な法的係争を起こされるかもしれないということがあげられる。そのため、厳しく調査したのだが、調査すればするほど、牧野の思想は米国民主主義の理想に近く、米国への愛国の至情がより明確になって、結局、逮捕されなかったものと思われる。

戦争中、1942年1月8日「ハワイ報知」は再発刊された。(1941年12月8日(真珠湾攻撃の翌日)最後の新聞が発刊され、9日からは発行停止日なっていた。)軍政下のハワイで、当然のことながら、「報知」は米国の戦争遂行に全面的に協力した。

戦後は「報知」はしだいに報道第一主義に傾斜し、論税は弱体化した。戦後、ILWU(国際桟橋倉庫労働同盟)を中心とする相次ぐストライキにも微温的な態度で終始した。

ハワイ報知社現在の地ホノルル市コケア街917番地、カパラマ運河に面した涼しい場所にある。1947年ここに新築移転した。

墓碑をかこむイタリー製大理石円形の石塔はヌアヌ記念公演にある。

これは、一つには、「ハワイ報知」が最も活動的だった1915~1930年の時期、編集長だった芳我日下(天愚)が、1931年5月24日死去、以後、彼に代るほどの人物に恵まれなかったことがあり、また、1925年入社以来、英文主筆として「社説」を書き続けたジョージ・ライトが1944年12月10日死去、これまたかげがえのない人物を失ったことにもよる。牧野は新聞事業で、芳我の死で片腕をもがれ、ついでライトの死で残った手を失ったわけである。

牧野には、いろいろな思いもあり、主張もあり、訴えたいこともあったに違いないのだが、それを紙面に見事に生かす術(すべ)を失っていたのである。

ここで付け加えて置かねばならぬことは、弁護士ジョセフ・ライトフートのことである。牧野が取り上げた事件の多くは、ライトフートとの共同作業だった。前記の主な活動の部分に挙げた5教師上陸拒否事件と日本語学校試訴事件は、ともにライトフートが弁護の衛に当たったものだったし、その前の倉本創刊阻止もライトフートとの協議により手続きがとられたものだった。また、第一次大戦従軍日本人の市民権獲得は、牧野・ライトフートの共同作業だった。

犬飼氏と歓談する牧野社長

もし、芳我、ライト、ライトフートの3人が、もう少し長生きしていたら、牧野の仕事はもっと実り多いものになっていたであろうし、ハワイの日本人、日系人の世界はもっと豊かなものになったであろうと、惜しまれてならない。

さて、牧野は1949年秋、マウイ島を婦人を伴って訪問、ハレアカラに登山したためか、ホノルルに戻って二日目、心臓障害を起こし、それから焼く3年半の療養の甲斐もなく、1953年2月17日、入院中のクイン病院で死去した。葬儀は仏式によりヌアヌ記念公園葬儀所で営まれたが、大変盛大なものだった。享年76歳。墓は同葬儀所の墓地の一角に、六本柱に支えられたドームの下に、石塔として残されている。

1950年6月21日尾崎行雄氏が牧野邸に来訪、しばし歓談した。

その5>>

*本稿は、ハワイ報知創立75周年を記念して発行されたものです。

© 1987 Hawaii Hochi, Ltd.

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執筆者について

1912年に創設され、ハワイを中心に週6日間、日英両言語による新聞を発行している新聞社。

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