ディスカバー・ニッケイ

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CWRIC委員就任の決断(英語)

(英語)イノウエ上院議員(ハワイ州選出)から電話があり、委員会(戦時民間人転住勾留委員会:CWRIC)の委員に任命する、という伝言を秘書から受け取りました。それからもう少し時間をさかのぼり、確かマイク・マサオカ氏が、僕に委員になる気があるかどうか電話で聞いてきました。確かマイクだったと思います。また、当時の僕の理解では、ジェリー・エノモト氏の名前も候補にありました。その他には誰が候補者だったかは分かりません。君は知っているかもしれないね。僕は知りません。

アプローチがあった後、僕はどうするか考えてみました。大変だ、厄介な問題だ、と思いました。日系人としてその立場に身を置けば、前方後方中央、どこに立っても火傷は必至だし、引き受けても受けなくても、恨まれることに変わりはない。かなりの論争を招くことになるし、自分が傷つく可能性もある。そう考えた僕は、相当躊躇しました。 当時の僕は、このように考えていましたが、躊躇するのと全く同じ理由で、引き受けることに決めました。よし、やってみようと思ったのです。

僕にできる唯一のことは、人々の個人的感情がいかなるものであれ、この問題の中心に身を置き、取り組むことでした。そして、どんな結果になろうとも自分の信念に従い、進むことでした。これは、まさに挑戦でした。これほど深く厄介な問題に介入することへの恐怖はありました。しかし、その恐怖こそが僕が委員を引き受けた理由でした。


リドレス運動

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

クリフォード・ウエダ

カーター大統領による委員会設置法案への署名の時のこと(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

補償が残した遺産(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)