ディスカバー・ニッケイ

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日系ブラジル人イメージに対する日本の影響 (ポルトガル語)

(ポルトガル語)ブラジル社会は、日系人に対して良いイメージを持っています。ブラジル人は、「日系人」といえば、一生懸命働く人々や農民、行儀良く静かな学生を思い浮かべるでしょう。ブラジル人に聞いてみれば、良いことをたくさん言われると思います。現在は、日系人口の15%程度しか農業従事者は居ませんが、ブラジル社会は、日系人や日本にゆかりのある人たちのことを、農民か農家出身と思うようです。

いずれにしても、ブラジル社会が抱いている日系ブラジルコミュニティへの好印象は、日本への好感にもつながっていると思います。そしてもっと最近のことを言えば、日本へ出稼ぎに行くブラジル人労働者のことが思い浮かべられると思います。良し悪しは分かりませんが、日系人は日本へ出稼ぎに行き、ブラジルにお金を稼いで戻ってくる、という風に見られていることも事実です。

ですから、ブラジル社会では日系人に対する2つの見方があると言えます。ひとつは、ブラジル国内で日系人が辿った歴史、もうひとつは、第二次大戦後の焼け野原から立ち上がり、第一世界国家となった日本で家族のために出稼ぎ労働をし、ブラジルへ戻り豊かに暮らす、という2通りの見方です。


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日付: 2005年10月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セリア・アベ・オイは1950年イタペチニンガ市で生まれました。祖父母は広島市に近い阿多田島から1929年ブラジルへ移民し、農園で綿やジャガイモを栽培しました。両親も兄弟も同じく農業を続けました。1968年は歴史学を専攻し、1979年にカスペル・リベロ大学のジャーナリスム科を卒業しました。70年代半ばから、ニッパク新聞でポルトガル語で記事を書き始め、複数の新聞社などを通して、日系ブラジル人社会を紹介してきました。1998年からブラジル日本移民史料館の会長になりました。 (2006年7月26日)

ロイ・ヒラバヤシ

太鼓演奏の哲学(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)

演歌歌手(1981年生)

アート・シバヤマ

ペルーでの子供時代(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

田中誠一

アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)