ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/399/

子供の時にみた父の逮捕(英語)

(英語) FBIはお金が目当てなのだろうと思いました。ですから私はFBI(の捜査官)に「(私の)貯金箱はいりますか?」と聞きました。するとその捜査官は「いりません。あなたはアメリカ市民ですから」と言い貯金箱には触れませんでした。まだ子供だった私は、おかしいなあ、父のお金を盗ったのに私のお金はいらないなんて・・・と思いました。捜査官は貯金箱を調べませんでしたから。そして捜査官は「父親をもう少し取り調べる必要があるので私達の事務所にご同行願うだけです」と説明しました。それでおしまい。私達は父が何も悪いことをしていないので、すぐに戻ってくるものだと思っていました。何というか・・・私が自分自身にそう言い聞かせていたのです。父は必ず戻って来ると。でも父は戻って来ませんでした。


第二次世界大戦

日付: 2003年8月3・4日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の救急ステーションでの仕事(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦後の東京(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦後の人々の変化(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

9/11後のアメリカの雰囲気について(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

ローズ・クツカケ

第2次大戦中の経験(英語)

第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

フレッド・ササキ

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

シズコ・カドグチ

タシュメでの生活(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)