真珠湾攻撃の後の救急ステーションでの仕事(英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

(英語)期待で胸が一杯だった高校3年の時、1941年12月7日に真珠湾攻撃が起きました。それで私たちの生活は一変しました。(私が通っていた)マッキンレー高校では1000人いた同学年の生徒が800人以下に減りました。学校に通えるはずの多くの生徒たちが、防衛組織の一員として、特に真珠湾で働きました。もちろん日本人を祖先にもつ私達は(防衛組織で)働けませんでしたが、他に出来ることがありました。学校に残った人たちは・・・そういえば、高校は12月7日以降休校になり、実際私たちが学校に戻ったのは2月に入ってからでした。休校の間、私たち学生の多くは働きました。

私はダン・イノウエ(現上院議員)と同じように、地域の救急ステーションで働くと申し出たのです。救急ステーションは、家からちょうど2ブロック位離れたところにあるトーマス・ジェファーソン・スクール(小学校)に設置されていました。私は(そこで働きたいと)自分の方から申し出たところ、補給係を任されました。そこで当時の私にしてみればものすごく沢山の給料をもらいました。あの時私は何歳だったか・・・まだ17歳か18歳のでしたからね。

補給係として一番面白かった経験は、政府がオワフの(住民)全員にガスマスクを配布すると決めた時のことです。政府は(日本人からの)ガス攻撃を警戒していましたから。そこで補給係としての私の仕事は、近所の住民にガスマスクを配ることでした。もちろん多くの住民達は喜んでガスマスクを受け取りにきましたが、驚いたのはある団体がやって来て「私達は『良心的兵役拒否者』」だと名乗って、エホバの証人だかなんだったのか、ガスマスクの使用は信念に反するからといって受け取らないのです。これには私も困惑して、スーパーバイザーにどうしたらよいか尋ねた記憶があります(笑)。

救急ステーションの初日2、3日はとても忙しかったです。停電がありましたしね。あと、本当は救急病院に行かなくてはならないような事故に遭った人を、私達が手当てした事がありました。誰かが彼のバイクに追突したか何かだったのでしょう。

日付: 2004年3月18日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ミシェル・マキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

hawaii oahu Pearl Harbor World War II

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