ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1791/

両親がブラジル移住を決めたきっかけ

結局私の父は7人家族なんですけど、ある時5人までブラジルに行ってた時期があるんですね。二宮コトと言うのがいて、これはだから私の父の姉ですね。それから私の父の二つ年上の二宮トクイチと言うのがいまして、これ全員、そのくましたはるみと言うその私の叔父の構成家族として1926年か27年にブラジルへ行ってるんですね。

で、まぁ二宮コトは「しむた」と言うまあ福岡県出身の人と、ブラジルで結婚した。

1952年の2年の終わりか1953年の初めに日本へやってきたそのしむた夫妻がものすごいお金持ちに見えて、彼らはまあ私たちの生活を見て、「こんなものはもうブラジルの方がもっといいと。日本はもう戦争に負けて、もう日本に未来はないからブラジルに来ればいい生活ができる」みたいなことを言ったんですかね。それでまあ、うちの両親は、まぁその言葉になんて言いますかねぇ、乗せられてですね「それでじゃあブラジルに行こうか」と。

1953年の11月28日にアメリカ丸と言う船で横浜を出て、それで1954年の1月16日にサントスに着いたんですね。


ブラジル 移住 (migration) 戦後 第二次世界大戦

日付: 2019年9月19日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

セリア・オオイ

日本人の祖先を持つブラジル人 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

セリア・オオイ

日系ブラジル人イメージに対する日本の影響 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

セリア・オオイ

日系ブラジル人アイデンティティの変化 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

セリア・オオイ

サンパウロに集中する日系コミュニティ (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

セリア・オオイ

新世代のライフスタイルの変化 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

ヘンリー・シミズ

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)