ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1715/

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

(英語)お話した通り、両親はポストンにいました。原爆が投下された時、両親が手に入れた新聞には広島市全域の航空写真が掲載されていたようです。その写真に破壊の規模が輪で示されていました。例えば赤で塗られた中心部は全壊地域、その先の4分の1マイル(約400メートル)は75%が全壊、という具合に。パーセンテージは今私が適当に言いましたが、そんな風に輪が拡大していきます。しかし問題は、私たちがいた場所は全壊地域を示す最初の輪の中にあったということです。2つの主要河川の合流地域に(祖父母の家は)あったので、両親は私たちの居場所を正確に特定することができました。「何てことだ、ここだったのか」と思ったことでしょう。それで私の両親は、私たちが生き延びられる望みは薄いと思ったのです。

でも両親は、さまざまな団体を介して私たちを探し始めました。そして数ヵ月後、アメリカ赤十字社を通して(無事が分かりました)。すぐに分かったわけではありません。かなりの時間がかかったと両親は言っていました。でも結局それがどのくらいの時間だったか、私が知ることはありませんでした。私たちが生きていることを両親が知ったのは、おそらく数ヶ月後だったのではないかと思います。


原爆 被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

ホリー・J・フジエ

日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ホリー・J・フジエ

祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士