息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

(英語)お話した通り、両親はポストンにいました。原爆が投下された時、両親が手に入れた新聞には広島市全域の航空写真が掲載されていたようです。その写真に破壊の規模が輪で示されていました。例えば赤で塗られた中心部は全壊地域、その先の4分の1マイル(約400メートル)は75%が全壊、という具合に。パーセンテージは今私が適当に言いましたが、そんな風に輪が拡大していきます。しかし問題は、私たちがいた場所は全壊地域を示す最初の輪の中にあったということです。2つの主要河川の合流地域に(祖父母の家は)あったので、両親は私たちの居場所を正確に特定することができました。「何てことだ、ここだったのか」と思ったことでしょう。それで私の両親は、私たちが生き延びられる望みは薄いと思ったのです。

でも両親は、さまざまな団体を介して私たちを探し始めました。そして数ヵ月後、アメリカ赤十字社を通して(無事が分かりました)。すぐに分かったわけではありません。かなりの時間がかかったと両親は言っていました。でも結局それがどのくらいの時間だったか、私が知ることはありませんでした。私たちが生きていることを両親が知ったのは、おそらく数ヶ月後だったのではないかと思います。

日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: 三木 昌子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

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