ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1449/

チャタムに再定住(英語)

(英語) 到着直後は本当に大変でした。ジャック・ニシザキの話をまた聞きしたことを覚えています。彼は年配の二世で、当時すでに大人でした。大家族の出身で、ささやき声で兄弟にこんなことを言っていました。ちなみにジャックは柔道の黒帯です。「大勢で襲ってきたんだ。奴らは『薄汚いジャップめ、帰れ』って言って、俺を叩きのめしに来た。だから俺は…」そう言いながら彼は、どんな動きで相手の暴力的な攻撃を封じ、倒したかを説明していました。

学校からの登下校時、僕にもそのような経験はありました。でも、僕にはジャックのような腕はなく、彼が勝ち取ったような栄光などあるはずもありません。大変でした。ちょっとしたことも楽ではありませんでした。当時、父は家を買うことになりましたが、家を買うことができた最初の日系人のひとりでした。僕はチャタムの黒人スラム、貧民街で育ちました。チャタムはかつて地下鉄道で逃げてきた奴隷の最終到達地だったので、黒人貧困層のコミュニティが存在する珍しい地区でした。僕は近所の日系二世や黒人の子供たちと一緒に遊んで育ちました。その黒人の子供たちは南から逃れてきた奴隷の子孫でした。


差別 対人関係 戦後 第二次世界大戦

日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

ジミー・ナガヌマ

戦後のスポンサー(英語)

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カズム・ナガヌマ

月に一度入国管理局にチェックインする

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高校における黒人差別の理解

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人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

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ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家