ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1447/

日系カナダ人強制収容所(英語)

(英語)僕がこの世に生を受けたのは、真珠湾攻撃の少し前でした。その後、ご存じの通り太平洋戦争が始まりました。僕はまだ小さな赤ん坊で、母親の腕に抱かれていましたが、カナダ政府の宣言により敵性外国人とされました。その結果、僕はヘイスティングス・パークの馬屋に母親に抱えられて行くことになりました。そこには西海岸沿いに住む22,000人の日系カナダ人が一時的に集められていました。日系コミュニティの土地や家は奪われ、日系人はブリティッシュコロンビア州内陸部に建てられた強制収容所に収容されました。西海岸の穏やかな気候の中で平和に暮らしていたコミュニティが、突然内陸部の過酷な環境に追いやられたのです。

僕ら一家が収容されていたタシュメの写真を見ると、掘っ建て小屋が何列も並んでいます。その小屋は生材、つまり生木でできていました。冬になると雪に埋もれ、巨大なつららができました。二家族に一軒の小屋があてがわれ、人々は凍えていました。カナダの西海岸でののどかな暮らしに比べて、厳しい環境での生活でした。その後、収容者の中にはアルバータ州南部のテンサイ農場に行くことになった人たちもいました。白人の労働者を戦争にとられ、深刻な労働力不足が起きていたからです。

その時の状況を書いた文章があります。ジョイ(コガワ)は実に力強く描写しています。僕もたくさんの人にインタビューをしましたが、彼らはこのように語っています。「いやはや、奴隷制に逆戻りしたかのようだった。駅に着くと家族ごとに並ばせられ、白人の農場主が来て品定めをするわけだ。若くて健康的で体格が良く、頑丈な息子のいる家族だけが連れて行かれた。年老りや小さい子供のいる家族はとり残されることが多かった」奴隷制さながらの歯や体を見る、というようなことですよね。衝撃的な光景です。


日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。