ディスカバー・ニッケイ

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公民権運動への参加 (英語)

(英語) 生き残ろうとする本能、それから精神的な意味での生存本能は、現実の難しい局面に直面し、それを乗り越えようとする時に生まれます。人はそういった局面を、本能的な、感覚的なレベルで乗り越えるのです。僕は自分がダメになってしまいそうだと感じ、何とかしなければならないと思いました。

その夏、僕は次から次へと災難に見舞われていました。僕は失意のただ中にありました。そしてその頃、テレビをつければ米国南部での目を見張るような劇的な事件が映し出されていました。黒人と白人の若者たちが、有色人種は立ち入り禁止とされたバーのカウンターに座り、コーラをかけられていました。彼らは床に突き飛ばされ、白人の集団に囲まれ、暴力にさらされていました。その集団は彼らを殺そうとしていました。それでも若者たちは立ち上がり、カウンターに戻って椅子に座り直すのです。そしてまたコーラがかけられ、床に突き飛ばされますが、彼らはまた立ち上がってカウンターに戻るのです。

何てことだと思いました。彼らの行動の意味が僕にはわかりました。心の底から理解することができました。僕には君たちの苦悩がわかる。君たちのその熱い気持ちは僕の気持ちでもある、と思いました。そしてあれこれ考えた結果、僕は自分の目で確かめなければならないと思いました。そして母にこう言いました。「お母さん、僕は夏の間まじめに働いた」その夏、僕はフォルクスワーゲン・ビートルを買うため、母に850ドル借りていました。町の主な夏期アルバイト先だった、リビー*の農作物の試料集めをするためです。すごく良いアルバイトでした。時給は良くありませんでしたが、十分貯金することができました。肝心なのは僕に足ができ、移動が可能になったことでした。僕は母に、「お母さん、僕は夏中一生懸命働いた。だから大学に戻って卒業する前にちょっと短い休暇を取るからね」と言って車に飛び乗り、南に向かって走り出しました。お母さんにはかわいそうなことをしてしまいました。その後約1年間、母と会うことはありませんでした。そして僕は大学を卒業しませんでした。

*注:主に缶詰を製造・販売する米国の食品会社


社会的行為 積極行動主義

日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。

ユリ・コチヤマ

社会運動への参加(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ジョージ・タケイ

公民権運動(英語)

俳優、活動家(1937年生)

ジョージ・タケイ

世間にカミングアウト(英語)

俳優、活動家(1937年生)

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

日系アメリカ人の連帯

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士