ディスカバー・ニッケイ

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SNCC指導者の運転手を務める(英語)

(英語) フォーマンは、容赦ない男でした。ジェームス・フォーマンは学生非暴力調整委員会(SNCC)の事務局長で、頭脳明晰、優秀なまとめ役でした。素晴らしく効率的に事務局を運営し、かなり強烈な人たちの扱いもお手のものでした。

フォーマンは、僕がバーミングハムからアトランタまで車で送った中の一人でした。バーミングハムは、僕が最初に到着した南部の街です。ジェームズ・フォーマン、SNCCのカメラマンだったダニー・ライアン、通信連絡担当をしていたジュリアン・ボンドがいました。皆一緒にアトランタに向かったのですが、そんなにたくさんの人を僕の車に乗せるのは初めてでした。フォーマンはかなりがっしりした大男でした。大変だったと思います。他の人たちも乗せているし、ビートルはそんなにパワーのある車ではなかったので、農業用トラックの後ろについて行くことにしました。しかしそのトラックはあまりにも遅いので、僕は追い抜こうとしました。するとセミトレーラーが向かって来たのです。僕は「頼む、ビートル!がんばってくれ!」と言いました。そして間一髪のところで車線を戻し、セミトレーラーはすごい勢いで走っていきました。本当に危ないところでした。初めて参加した公民権運動の活動で、運動の主要組織の指導者を皆殺しにした、なんてことになっていたら最悪でした。

僕らはアトランタに到着しました。先ほどもお話したとおり、フォーマンは天才で、バカな奴を容赦しませんでした。彼は、深いため息や嫌悪感に満ちた表情、冷笑、軽蔑の眼差しといった表現の宝庫で、かなり威圧的でした。フォーマンが「事務所の掃除をするか?」と言うので、僕は「いいですよ」と言ってごみを出して片づけました。彼に用事があったので、「そこまで送って行きましょうか?」と言うと、「よしわかった。お前がそうしたいのなら、戻ってきたらそのまま事務所にいてもいいぞ」と言いました。「ぜひそうさせてください」と僕は答えました。その道中、僕は彼の軽蔑の眼差しを感じました。すると彼は、「何なんだよお前は?流行りの人道主義者か?」と彼の中で最も侮辱的な言い方で言うので、「違います。僕はソクセキ仏教徒です」と答えました。思いつきで適当に言ったんです。即席の仏教徒、ですね。彼はあっけにとられて黙り、その後僕は静寂の中運転することができました。一体全体それは何だ?という雰囲気に包まれていました。


日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。