ディスカバー・ニッケイ

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父の証言を誤訳されたことへの怒り(英語)

(英語)父の裁判、確かサンタフェだったと思いますが、での出来事について、僕はワシントンDCに抗議の手紙を書きました。当時、日系二世のほとんどが強制収容所に収容されていたので、運悪く通訳がいなかったのでしょう。父の通訳は韓国系の人でしたが、通訳としては日本語が未熟な韓国系の人しかいなかったのです。彼女に悪気が無いことは分かりました。証言をする父の横で、彼女は英語にも日本語にも苦労しているようでした。 僕は、父の証言が正確に訳されていないことがわかり、怒りを感じました。それで、ワシントンDCに手紙を書き、公聴会の記録の写しをくれるよう頼みましたが、入手できませんでした。僕は、通訳が全く見当違いのことを言っているのだから、こんなのは不当だと書きました。

僕はその手紙を、エドワード・エニス氏に送りました。確か彼だったと思いますが、エニス氏は手紙の受領を知らせてくれるだけで、起きたことについては何も触れませんでした。 僕は何も言うことはできませんでしたが、裁判でのやり取りは全て聞いていました。そして僕は、初めて父が涙を流すのを見ました。そんな父を見るのは初めてでした。僕はいつも父は侍のようだと思っていました。しかしながら、その時の父はすっかりやつれた様子で、僕は本当に怒りを感じるようになりました。


第二次世界大戦

日付: 2005年3月25日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。

2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。

2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)