ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1079/

FBIへの連行を予期していた両親(英語)

(英語)パニックは起きませんでした。日本人特有の冷静さとも関係あるのでしょうか。両親は、「なるようになる」と言っていました。仕方がない、ということですね。2人とも国外追放になるとは思っていなかったようですが、父は自分の武術との関わりのせいでFBIに連行されることを予期していました。でも、父が実際に連れて行かれたのは、FBIが人々を連行し始めた初期の頃ではなく、大分後になってからでした。

母は、自分が日本人教師なので連れて行かれるだろうと思っていたようです。でも母は、僕を慶応大学に入学させるために日本へ戻り、コンプトン学園では代理教師が教えていました。FBIのリストには母の名前がありましたが、FBIは代理教師を連れて行ってしまいました。母は、FBIが来るのを待っていましたが、連行されることはなく、結局司法省の収容所に収容された後、マンザナール強制収容所へ移されました。父も、司法省の収容所に収容されました。


第二次世界大戦

日付: 2005年3月25日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。

2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。

2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

マルガリーダ・トミ・渡辺

戦時中の救済会の役割

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

マルガリーダ・トミ・渡辺

警察での取り調べ

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

ヘンリー・シミズ

真珠湾攻撃の影響の少なさ (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中のカナダ在住の日本人漁師らの扱い (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府の許可を持って出版した邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府によってサポートされた邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

同胞の援助と協力 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ビル・ホソカワ

記者の責任 (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

クリフォード・ウエダ

兵役志願(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)