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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第10回 加藤家の墓 

原田東岷が死を確認

80歳を過ぎても軍縮問題など平和活動に打ち込んでいた加藤新一は、1982年2月9日の朝、自宅で脳梗塞のため亡くなった。突然のことだった。妻の章子さんはアメリカ生まれでモダンな生活を好み、アメリカ生活の長かった夫婦はオープンで仲睦まじく、寝室もともにしていた。

この日の朝、甥の吉田さん宅に章子さんから、ベッドにいる夫、新一の様子がおかしいと電話があった。吉田さんが母親の春江さん(新一の妹)と一緒に加藤宅に駆けつけると、新一はベッドの上で口をあけたまま横たわっていた。

すでに1キロほど離れた原田病院に連絡がしてあり、院長がやってきていた。院長の原田東岷(とうみん)氏(1912年〜99年)は、戦時中は軍医だったが、原爆の翌年の46年春に出身地の広島に帰ると病院を開き、被爆者の治療にあたった。また、ベトナム戦争で傷ついた子供たちを日本へ招き治療をするなどし、医師であるとともに平和活動家として著名な人物である。

同じく平和活動に打ち込んできた加藤とは親しい間柄だった。この原田氏が、加藤の死をその場で確認した。


小高い丘の墓地に眠る

加藤の葬儀は、翌日の10日に、菩提寺である自宅近くの市内寺町の円龍寺でとりおこなわれ、遺骨は円龍寺境内の墓地に埋葬された。夫のなきあと章子さんは、しばらく一人で暮らしていたが、一人息子の直(ケネス)氏はロサンゼルスを終の住処としていたこともありアメリカへ引っ越し、アメリカで最期を迎えた。

このため、加藤家の墓守は妹の春江さんと吉田さんに委ねられた。その春江さんも2015年に亡くなった。吉田さんは将来のことを考え、吉田家の墓のある自宅近くの市営の墓地に加藤家の墓を移した。

小高い丘の墓地いたつ加藤家の墓

吉田さんから話を聞いたあと、お墓を見たいと思っていたところ、「案内しましょうか」と、吉田さんが誘ってくれたので、車で近くの墓地に行ってみた。小高い丘の上の見晴らしのいい墓地の一画に加藤家の墓はたっていた。

位牌のように脚のついた形の墓石には「倶會一處」と縦に刻まれ、その下に「本家 加藤」と右から横書きで刻まれていた。「倶會一處」は、「くえいっしょ」と読み、「仏説阿弥陀経」に出てくる言葉だ。「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」という意味で、浄土でまた再会するという意味だという。「南無阿弥陀仏」と同じように、浄土真宗、浄土宗の墓石に彫られる文言である。

墓石の裏にまわると、「釋」の一文字の下に、釋に続く法名とともにこの墓に遺骨の埋葬された加藤家の人たちの没年月日、名前そして享年が記されている。「釋」の文字がかすれているところが墓の歴史を物語っている。

先に亡くなった順に右から並んでいる。一番右の「ハマ」は、加藤新一の祖母で、続いて「省三 二十四才」、「文江 二十二才」とある。原爆で若くして亡くなった新一の弟と妹だ。続いての「松次郎 七十四才」、「くま 七十九才」は新一の両親。そして最後に「新一 八十二才」とある。

墓石の裏に家族の名前が刻まれている


父、松次郎は長男だが渡米 

加藤家の墓を訪ねてからしばらくして、吉田さんが加藤家の家系について詳しく教えてくれた。それによると、加藤新一の祖父は、加藤新次郎といい本籍は広島県安佐郡三篠町とあるが、これはのちの広島市西区横川一丁目で、新一が生まれたところでもあり、少なくとも三代に渡って同じ場所で加藤家は続いている。

加藤家の家業については、「土地ももっていたから農業をやっていたんではないだろうか」と、新一の甥の吉田さんは言うが、どの程度の規模かはわからない。しかし少なくともある程度の土地持ちだった。また、新次郎から家督を継いだ松次郎は長男だった。つまり、土地もあり長男だったが松次郎はアメリカへ渡ったことになる。

戦前の海外への移民の動機については、家督を継ぐ長男以外の男子が新天地に生活の糧や財産を求めて、とよく言われたが、長男でも例外ではなかった。それはひとつに、いずれ家督を継ぐために帰国するつもりだったからだ。

行き先がアメリカの場合とくに、移民といっても最初から永住を目的とした移民ではなく、そのほとんどが生活のためあるいは一獲千金を夢見た出稼ぎ移民だった。例えば、借金を抱えたものが日本にいて返済しようと思ったら10年、20年とかかったのが、アメリカで2、3年稼げば返済できたといった話を聞いて、渡米したものもいる。こうした情報を帰国者から聞いて、ブームのようにまとまって海外へ出た地域もあった。

しかし、当初の目論見とはちがって定住し、アメリカに骨を埋めたものもまた多かった。最初は日本に帰るつもりだったが、家族ができアメリカの生活が長くなると、子供たちはアメリカ人になり、さらに孫ができれば家族の重心は完全にアメリカに傾いていった。また、戦争がこの問題を複雑にした。日本人として生きるかアメリカ人として生きるかを迫られ、さらに日本へ帰るかどうかと悩むこともあった。

もちろん世代によって全く異なり、また個人個人をとりまく家族事情、経済的な事情によってもとるべき道は異なる。ひと口にアメリカ移民といっても、その形はさまざまである。

では、加藤家と新一の場合はどうだったのか。移民県として知られる広島からの移民を背景にして、振出しに戻って加藤のたどった道をしばらく追ってみたい。

(敬称一部略)

続く >>

 

© 2021 Ryusuke Kawai

hiroshima journalists Shinichi Kato

About this series

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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