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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第7回 81歳で故郷広島に永眠

中国新聞の連載記事「原爆と中国新聞」(2012年3月〜5月)によれば、広島に原爆が落とされた当時、加藤新一は中国新聞記者の報道部長で、被爆当日市内を歩き回り、一ヵ月後には広島入りしたアメリカの調査団に同行した赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内係として廃墟の被爆地を回ったことが分かった。

彼はそこで何を見て、どう思ったのか。またそれが、後の彼の人生に何か影響を及ぼしたのだろうか。さらに詳しく知りたいと思った私は、連載記事に署名のあった編集委員の西本雅実氏に連絡をとり尋ねてみることにした。

私はフリーランスとはいえ、西本氏とは同業者であり、本来ただ情報をもらおうというのは図々しい話ではある。しかし、西本氏の名前には見覚えがあった。40年以上前のこと、私は大学でものを書いたり批評したりするサークルに所属していた。薄汚れたコンクリートの建物の中の、さらに汚れた小さな部室を活動の拠点としていたが、そこは映画好きのあつまる別のサークルと共用となっていて、否が応でも互いに顔を合わせるうちに、常連の部員同士は自然と話しをするようになった。

そこで出会った「西本雅実」という一年先に卒業した人が、広島出身で確か地元に戻り新聞記者となったという話を聞いていたので、この連載を担当した編集委員に違いないと思ったので、思い切って連絡をとることにした。

たまたま学生時代の友人の新聞記者が、記者としての西本氏と連絡をとったことがあるのも幸いし、電話をしたところ、なんとなくこちらのことも覚えていてくれた。さっそく事情を説明し、加藤新一について詳しく知る手立てを尋ねた。すると後日わざわざ加藤について書かれた記事や、彼自身が書いたものを数点コピーして郵送してくれた。


中国新聞に掲載されていた訃報

「加藤新一氏の訃報(一部)」(『中国新聞』1982年2月10日)

そのなかに、1982年2月10日付の中国新聞に掲載された訃報があった。「百年史」に書かれていた1961年までの彼の人生が、これで最後までわかった。1段の扱いだが、小さな顔写真とともに490字でその人生が以下のようにまとめられていた。

加藤新一(かとう・しんいち=地球市民広島連合代表、元中国新聞社編集局次長)九日午前七時半、脳コウソクのため広島市西区横川一丁目八ノ二一の自宅で死去、八十一歳。広島市西区横川一丁目出身。葬儀は十日午前十一時、同市中区寺町三ノ一三の円龍寺で。喪主は妻ゆき子さん。

加藤氏は、戦前、米国に渡って日本字新聞の記者となり、昭和十六年帰国後、中国新聞社に入社。編集局次長、文化局次長などを歴任、二十四年退社後、再び米国で記者活動をするなど約四十年間、日米両国で新聞記者として活躍した。この間、中国新聞社在職中に被爆。妹と弟が被爆死したのをきっかけに世界連邦建設運動に参加。同二十七年十一月、世界連邦建設同盟(本部オランダ)のアジア会議が広島で開かれた際、事務局長を務めた。その後、ウ・タント元国連事務総長が提唱した「地球市民運動」で地球市民広島連合代表として平和運動に尽くした。

五十三年、第一回国連軍縮特別総会に併せて、ニューヨークで市民団体が開いた「生存のための大動員集会」に、弟妹の遺影を胸に参加。ことし六月の第二回国連軍縮特別総会にも、平和団体の一員としてニューヨーク行きを計画していた。


原爆で妹、弟を失うが…

この中には、「百年史」の編集のことは書かれていない。戦後は、再びアメリカで記者として活動した間をのぞいて、平和運動に深くかかわっていたことがわかる。そしてそのきっかけとなったのが「妹と弟の被曝死」とある。ここで初めて私は加藤が妹、弟を原爆で亡くしたのを知った。理由はわからないが、「百年史」のなかの自らのプロフィールには、このことは触れられていないし、あとがきなどにも書かれていない。

アメリカで多感な青春時代を送り、某かの影響を受けたと思われる加藤だが、戦争がはじまると抑留所に収容され、帰国した広島では原爆の惨状を目の当たりにする。複雑な心境だったと想像するが、さらに妹、弟を原爆で失う。

しかしというかだからなのか、地球市民運動という国境を超えた平和運動にその後邁進している。また、「百年史」のあとがきのなかで、読者に対して「一貫して流れ、時とともに成長して行く米国民主主義の偉大さを看取され度いことである。」と、アメリカの民主主義を称賛している。


「人類は同じ家族なんだ」

アメリカや原爆については、いったいどう思っていたのだろう。あるいは日本の戦争責任についてはなにか思うところはなかったのか、そんな疑問がわいた。それに対する答えは、西本氏が送ってくれた別の記事から少しずつ読み取ることができた。

加藤が亡くなる4年前の1978(昭和53)年5月26日付の中国新聞の「ひとみ」と題する人物紹介.で「地球市民意識を訴えて訪米する世界連邦広島県協議会理事長」として加藤がクローズアップされている。眼鏡とふっくらした顔つきが大橋巨泉と似ている大きなポーズ写真がついている。

記事のなかで、加藤が記者に語る。

「一国で平和を保たれる国なんかありぁーしない。キミ、二十一世紀の平和哲学は“相互依存”。人類は同じ家族なんだ。……」、「けんかばかりしとる原水禁運動はだめだよ。大人にならにゃー。アピールや決議はもうたくさんだ。国連軍縮特別総会も国益を代表した首脳の集まり。しょせん“国際小田原評定”だよ」、「国連に人民会議を作らせる。国家をなくし世界を一つの連邦に。軍事費を太陽エネルギーの開発や食糧増産へ向けるんだ…」。

力強い、理想にあふれた言葉だ。だが、初めからこうした考えを持っていたわけではないようだ。記事が説明する。

「(原爆投下)当時、新聞記者。出勤中に西広島で被爆した。取材に駆け回り、妹を捜し当てたときは体中斑点だらけ。『兄さんかたきを討って』と死んで行った」。

この妹の言葉は、もちろん加藤から記者が聞いたのだろう。言葉通りに解釈すれば、「アメリカに対して仕返しをしてくれ」というのだ。

記事は、続ける。

「凝り固まった復しゅう心が変わってきたのは二十六年、広島で開かれた第一回世界連邦アジア会議に出てから」。

この一文からすると、加藤は妹の残した言葉から一時はアメリカへ復しゅう心を抱いたが、平和運動にかかわって気持が変わっていったことがわかる。加藤は記者に「かたきは核戦争」と語っている。アメリカではないのだ。

妹、弟を原爆でなくし、「かたきを討って」と言い残した身内のことを思ったら、だれだって当然復讐心に燃える。加藤もまた当初はそうだったのだ。しかしその負のエネルギーは、第一回世界連邦アジア会議に出たのをきっかけに、ものすごいエネルギーとなって平和運動へと向ったようだ。

加藤の平和運動の原点でもある原爆体験とはどのようなものだったのか、それを乗り越えて傾注するようになった世界連邦や地球市民の運動とはどのようなものなのか、知りたくなる。が、それはしばらくあとに回すとして、加藤の人生の全体像がおよそ明らかになったところで、彼の人生を、広島からのアメリカ移民の時代に立ち戻ってなぞっていきたい。   

(敬称略)

第8回 >>

 

© 2021 Ryusuke Kawai

a-bomb activist Chugoku Shinbun hiroshima journalist Masami Nishimoto peace movement Shin-Issei

About this series

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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