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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その4

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制度的人種差別の中で起きたロサンゼルス暴動 

公民権法が成立し、日系人強制収容に対するリドレスが成立し…と人種差別を是正するための取り組みが少しずつ歩を進めてきた一方で、新自由主義的な政策の下で、社会に深く根を張った制度的人種差別は人種間、また人種の中でも、いっそうの経済的格差を広げていきました。

同じ頃、1965年の移民法改正によって移民の扉が開かれたアジア圏や中南米から新しい移民が続々とアメリカに移住してくるようになりました。自国での政治的、経済的状況を背景にアメリカを目指した移民・難民は、彼らに住むことのできた貧困層が暮らす地域で生活を始めるのですが、それはしばしば、差別と貧困にあえぐ黒人が暮らす地域であったのです。公民権運動も黒人の苦難の歴史も知らない移民たちと、移民が味わってきた苦境を知らない黒人たち。互いに対する無理解と貧困による資源の少なさから、そうした地域に住む者同士で衝突が起きることも少なくありませんでした。

そして1992年、ロサンゼルス暴動が発生します。1991年に黒人男性のロドニー・キングに対し、白人警官らが激しい暴行を加える出来事があり、また黒人が多く住む地域にあった韓国系の商店主が万引きと誤解して黒人の少女を銃殺。この商店主は有罪となったものの、陪審員が求めた禁固ではなく、5年間の保護観察と500ドルの罰金という軽い量刑であったことから人種間の緊張関係が高まります。そこに、ロドニー・キングに暴行を加えた警官ら全員に無罪判決が下されたのです。その無罪判決に対し、黒人らは裁判所や警察署前の路上で抗議デモを展開。そのデモが暴動につながった理由は明瞭には特定されていませんが、デモの中で、長年にわたって不当な差別と暴力にさらされてきた黒人のやるせない思いと怒りが暴発したのかもしれません。

1992年4月29日、ロサンゼルス暴動が発生したこの時に、サウスセントラル地区で働いていたマイクはロドニー・キング事件に関するコミュニティーミーティングに参加していました。「出かけた時は穏やかでしたが、暗くなり始めてミーティングを終えて帰ろうとした時に、知り合いの黒人が『気を付けろよ。人種問題に発展している』と言って、安全に帰れるように誘導してくれました。その数日後、コリアタウンでデモが行われるというので黒人の友人と出かけたのですが、そこに警察は全くいませんでした」。

死者63人、負傷者2383人、被害総額10億ドルにも上ったロサンゼルス暴動の最中、黒人やメキシコ系、アジア系などのマイノリティーが多いサウスセントラルやコリアタウンといった地域は公権力によって守られることはなく、暴動の被害を大きく受けることになりました。警官にとって有色人種の多いこれらのエリアは守るべき街ではなかったのです。人種暴動として報じられるこのロサンゼルス暴動の背景と結果には、社会の底辺で生きるマイノリティーに押し付けられた制度的人種差別から生じる歪みがあったのです。

しかしこの中からも新しい連帯の動きが生まれました。「怒りにかられた黒人の暴動により、韓国系コミュニティーは大きな被害を受けましたが、互いの無知と偏見を補おうと、韓国系と黒人のコミュニティーは歩み寄り、新たな関係を築き始めました。どんな悪い出来事でもポジティブなものを始められる可能性があります」(マイク)。

そもそもマイクがサウスセントラル地区で働き始めたのは、黒人の公民権活動家で牧師のジェシー・ジャクソンが84年に民主党大統領候補の予備選挙に立候補し、それを手伝い始めたことがきっかけでした。

ジェシー ・ジャクソン(中央)が1988年の大統領予備選に出馬することを発表する元下院議長ウィリー・ブラウン(右から2人目)。左から2人目がキャンペーン・ディレクターのマイク・ムラセ。右はマキシン・ウォーターズ連邦下院議員。(Courtesy of Mike Murase)

「彼を支援したのは人種だけが理由ではないのです。ジェシーは世界平和にも、女性の権利にも、環境についても素晴らしいビジョンを持っていました。そして『私たちの国旗は赤と白と青だが、私たちの国は赤、黄、茶、黒、白が混じった虹色だ』と。彼は黒人だけでなく、全ての人種のことを考えていましたし、実際88年に民主党の大統領予備選挙で2番目の得票数を獲得した時、黒人に次いで多く彼に投票したのはアジア系だったのです」。

ジェシーは指名を獲得することはなかったものの、マイクは「無駄ではなかった」と回顧します。ジェシーの立候補は黒人や他のマイノリティーの政治参加を促し、それまで選挙に出ることを考えもしなかったヒスパニックやアジア系のマイノリティーが政治の世界へと飛び込んでいく契機になったのです。

「Black Lives Matter」は私たちの問題か?

歴史をたどれば、何度も交差してきた日系人と黒人コミュニティーですが、経済的格差が広がり、暮らす地域が離れたことも背景に、今は個別の例を除いては、その関わりは極めて限られたものになっています。

「リドレスの後、日系コミュニティーの関心は非合法移民の人権問題に移っていきました。日系人の多い西海岸では黒人の数が少なく、移民の数が多いこともその理由だったと思います。また2001年のアメリカ同時多発テロ後は、ムスリムや中東系、南アジア系に対して人種差別が向けられるのに対して声を上げることに優先順位が置かれました」とカレンは話します。

しかしその状況は、過去数カ月の間に変化しつつあります。その理由の一つはアジア系に向けられた人種差別でした。この数年にわたって差別的な言動を許容する雰囲気が全米レベルで醸成された中に新型コロナウイルスが流行。そのウイルスを中国と重ね合わせる言説が流布され、どのアジア系であるかにかかわらず、アジア人もアジア系アメリカ人も、ここ数十年には経験したことのない人種差別のターゲットとなっているのです。

「私たち日系人は多くの場合、社会的に成功し、人種差別など存在しないかのように嘘の安全性に包まれて生きてきました。しかし、人種差別はいつ私たちに向いてもおかしくないと目を覚まさせられたのです。それに、もう一つの理由は、私たちのコミュニティーの中にも黒人に対する差別意識がある、ということでした」(カレン)。

「移民がアメリカに来るのは、多くの場合、自分自身や家族のより良い未来のためです。彼らはより良い安全な暮らしへ憧れます。しかし、この国では長年の制度的人種差別から、社会的な力を持ち、豊かな暮らしをしているのは主に白人であるわけです。そうなるとより良い暮らしをしたいと憧れるとき、『白人のようになりたい』と思うことになります」(マイク)。

5月にジョージ・フロイドが警官によって殺害された時、その現場にいた4人の警官の1人はアジア系アメリカ人でした。彼はベトナム戦争を逃れてアメリカに移住したモン族の移民の子どもであり、白人のように成功したいと、黒人に対する人種差別意識を身に付けていったのです。長年、より良い「アメリカ人」であろう、より白人に受け入れられようと努めてきた歴史のある日系人、アジア系アメリカ人にとって、彼はまるでもう一人の「私たち」のように映ったのです。

クリステンはこう話します。「これまで何年も研究を続けてきて、制度的人種差別や自分の特権を理解しているつもりでしたが、安全な場所から傍観していただけだと痛感しました。自分が生きているこの社会にどうしたら確固たる変化を起こせるのか、まだ迷いながら考えている途中です。これは短距離走でなくてマラソンで、変化には長い時間がかかると思います。でも、今ここから始めていかなくてはならないと考えています」。

私たちにはそれぞれの生活や家族があり、守りたい安全や実現したい夢があります。公正さを実現するためにそれらを全て諦める必要はなく、生活の中で少しずつ選択を変え、友人や家族と会話を持ち、考え学び、署名や寄付、投票、デモといった政治参加など、小さな変化を私たち一人一人が起こし続けることで物事は変化していきます。たとえ無力なようでも、たとえ今、全てが変わらなくとも、小さな行動の累積が未来を変えていきます。その変化は、国籍や人種にかかわらず、この国に暮らし、この国に関わる全ての人にかかっています。

もし今、これは「私たちの問題ではない」と考えるなら、そう考えられることそのものが、私たちが安全な場所にいることの証です。そして、これは「私たちの問題ではない」と考え続けるなら、次は私たちの問題となるかもしれないのです。

「私たち」の未来のために

アメリカで暮らす私たちは、私たちより前にこの国に来た日本人移民や日系人の肩の上に立っているだけではなく、アメリカ黒人史の肩の上に立っています。当たり前のように享受している公正さも安全もその上にあり、私たちは、その危ういバランスの上にこの国に暮らしているのです。

そして今ここに生きる私たちは、黒人をはじめとする他のコミュニティーと共に生きてきた「日系アメリカ人の歴史」の続きを紡いでもいます。その歴史の続きと、未来の私たちが生きていく社会の土台をどのように作っていくのか。今、私たちが向かい合っているのはその問いかけでもあるのです。

 

* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

© 2020 Masako Miki / Lighthouse

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