Masako Miki

三木昌子は、全米日系人博物館・日本語渉外担当として、日本人や日本企業に向けてのマーケティング、PR、ファンドレイジング、訪問者サービス向上などを担っている。またフリーランスの編集者、ライター、翻訳者でもある。2004年に早稲田大学卒業後、詩の本の出版社、思潮社に編集者として勤務。2009年渡米。ロサンゼルスの日本語情報誌『ライトハウス』にて副編集長を務めた後、2018年2月より現職。

(2020年9月 更新)

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3

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公民権運動とアジア系アメリカ人運動 

実際1960年代の日系社会では、若者のドラッグの乱用や、収容所から戻ってきた後、生活を立て直せず貧困の中で暮らしていた高齢の一世らの社会福祉といった問題が出てきていました。しかしそれは「モデルマイノリティー」であるべき日系コミュニティーでは存在しないものとされ、いっそう問題を悪化させることになったのです。

当時、ソーシャルワーカーとして若者のドラッグ乱用問題に取り組んでいた一人が、全米日系人博物館チーフキュレーターのカレン・イシヅカさんです。

「私たち三世は誰よりも優秀であり、問題を起こさず、優れたアメリカ人であることを期待されました。しかしそれがなぜなのか、親たちは決して説明してくれなかったのです」。

収容所に送られた一世や二世の大半はその経験を口にすることはなく、そのために三世の多くは、自らの生まれた場所や家族の歴史を知らないまま成長することになりました。三世が英語ではキャンプと呼ばれる「強制収容所」のことを知るのは1960年代後半 ...

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その2

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リトルトーキョーからブロンズヴィルへ

1941年に日米が開戦すると、日本人移民や日本人を祖先とする日系アメリカ人らに疑惑の目が向けられます。真珠湾攻撃直後には日本人コミュニティーの指導者的立場にいるとみなされた一世が逮捕され、翌1942年には西海岸に住む日系人約11万人全員が人里離れた荒野や沼地に作られた強制収容所へと送られました。日系人がスパイ行為や破壊行為を行った事実はなく、ただ日本人の血を引いているからというだけで「敵」と同一視されたのです。その3分の2がアメリカに生まれたアメリカ市民でした。一方で同じようにアメリカの敵であったドイツ系、イタリア系に関しては、疑わしいとされた者だけが拘束されました。

戦前は約3万人の日系人が暮らしていたロサンゼルスのリトルトーキョーもゴーストタウンとなりました。そこに新たな住人が現れることになるのです。「第二次大戦中のロサンゼルスは軍需産業の拠点であり、戦闘機や戦艦などの製造において多くの人手を必要としていました。そこで人種隔離や異人種間の結婚禁止など人種差別的な州法『ジム・クロウ法』があった南部から、大勢の黒人が職を求め、また社会的立場の改善に期待をかけて移動してきたのです。しかし彼らもまた住宅の人種差別条項によって白人の住む地域で暮らすことはできませんでした ...

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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その1

「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter/黒人の命だって大切だ)」。今、起きているこの運動をどう考えているでしょうか。アメリカに暮らす日本人にもさまざまな人がいて、黒人*や白人や日系以外のアジア系の血が混じった人や、他の人種やエスニックの人と結婚した人もいます。その立場や環境によって、この「ブラック・ライブズ・マター」は自分に関係のあることとして、もしくは自分からは遠いもののようにも感じられていると想像します。

私たち日本人は、今、アメリカで命の危険を覚えるような人種差別にさらされることはまずありません。新型コロナウイルスの流行と共にアジア系への人種差別が増えていることから差別的な言動に出くわすこともありますが、基本的には法と秩序は私たちを守ってくれるもののように感じられます ...

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