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日本の社会科教師と巡ったロサンゼルスの日系コミュニティー

日本の人は日系を知らない

アメリカに渡って28年になる。その間、ライターという仕事柄、多くの日系アメリカ人に取材をしてきた。また、自分と同じ境遇の人がなぜアメリカに来ようと思ったか、そして実現するためにその人の背中を押したのは何なのかということにも興味があり、アメリカに暮らす大勢の新一世にも話を聞いた。そして、いつも思う。日本から来た人は日系人のことをあまり知らない。日系人が戦時中に強制収容所に送り込まれたこと、戦後、ゼロからの再出発を強いられたこと。アメリカで生活している日本人でさえそうなのだ。アメリカに観光や出張で来る程度の日本国内に暮らす日本人は、ほとんど日系人について知らない。だからこそ、私はこのDiscover Nikkeiという、世界中どこからでも見られるオンラインの媒体で、アメリカの日系人や新一世について伝えてきたつもりだ。先日、自分の仕事が報われたと思えることがあった。日本の滋賀県の公立校の社会科教師の井上陽平さんという男性が、私の記事を読み、メールをくださったのだ。

そのメールには、「あなたが記事に書いたベニスの日系コミュニティーについて興味がある」と書いてあった。私はかつて日系人が暮らしていた、ターミナルアイランド、クレンショー・ディストリクト、ベニスの3つのコミュニティーについて、随分前に取り上げたことがあった。祖父が戦前にコロラドで働いていたことを知った井上さんは、アメリカの日系人について調べるにつれて興味が湧き、すでにロサンゼルスではリトルトーキョーや全米日系人博物館は訪ねたが、次の滞在時にはベニスまで足を伸ばしたいということだった。日本の人がアメリカの日系人や日系コミュニティーについて関心を持ってもらえたことが非常に嬉しく、結果的に、井上さんの案内役を引き受け、9月中旬の某日、ロサンゼルス周辺の日系に縁(ゆかり)がある場所を一緒に訪ねて回ることにした。


ベニスからターミナルアイランド

朝9時半、ダウンタウンのホテルに井上さんを迎えに行き、最初に向かったのはベニス・ジャパニーズ・コミュニティーセンター。そこではあらかじめアポイントメントを取ってあった、チェアマンのジョン池上さんが対応してくれた。

池上さんによると、同センターに所属する会員数は1500人。「日本語学校を併設しているだけでなく、書道や生け花などの日本文化の教室も開講していて、人気があります。センターの運営で一番苦労するのは、資金集めです。また、世代が進んで、他人種との結婚で純粋な日系人は少なくなる一方ですから、センターに関わる対象を広げていくことを常に意識しています」と池上さんは話してくれた。

ベニス・ジャパニーズ・コミュニティーセンターのジョン池上さん(左)と井上陽平さん。

戦前にベニスを拠点としていた日系人たちはセロリの栽培に従事していた。セロリ農園は今や見る影もないが、日系人はセロリを育て、鉄道でダウンタウンの市場に出荷していたのだ。その鉄道線路の跡もカルバー・ブールバード沿に遊歩道という形で残っており、移動中、車の中から井上さんに見てもらった。

話を聞かせていただいた後、池上さんはセンター内をツアーしてくれた。オフィス、教室、ジム、講堂と、会員たちが文化、教育、スポーツ活動に没頭できる立派な施設を構えている。それも全て地道な資金集めによるものだ。

池上さんと別れた後は、ターミナルアイランドに向かった。ここには戦前、主に和歌山県から渡米してきた人々の漁師村があった。小学校も仏教系とキリスト系の2校があり、教師も生徒もほぼ全員が日本人だったので、子どもたちは島の外の学校に進学するときに英語が理解できずに苦労したそうだ。しかし、戦争が終わると、目貫通りを中心に広がっていた居住地は撤収され、住民は行き場をなくしてしまった。今はレプリカの鳥居と漁師像が残るのみ、それ以外は往時を偲ばせるものは何もない場所。滋賀の学校教師となった井上さんだが、ルーツは和歌山県なのだという。もしかしたら、彼の祖先がこの地に移住していても不思議ではなかったかもと思いながら、私たちは鳥居の周囲でつかの間を過ごした。

和歌山出身者の漁師村がかつてあった場所、ターミナルアイランドで。

最後は元敬老の高齢者施設へ

ランチの場所にはガーデナのボブズハワイアンという日系ハワイ料理のレストランを選んだ。ボブズは、前の日系ハワイアンのオーナーから新一世の佐藤キミさんに代替わりをしても、変わらず、以前からの常連客に愛され続けている店だ。確かにハワイ出身の日系人はガーデナに多い。井上さんの「なぜ、ハワイから本土に渡ってくるのですか?」との質問に対して私は以前に誰かから聞いた答えをそのまま話した。「ハワイは観光と軍産業くらいしか仕事がないので、本土の大学に進学するとそのままハワイには帰らずにこちらに残ってしまう日系人が多いのだと思います。もともとガーデナは昔、イチゴ栽培に従事していた日系人によってコミュニティーが形成されていたので、ハワイからの日系人にも暮らしやすかったのではないでしょうか」。食事をしながら、オーナーのキミさんがなぜアメリカに来たのかという話も井上さんにしてくれた。

次の約束はガーデナ仏教会。ここの開教使を務めるジョン庵原さんの仏の道に進んだ理由が興味深かった。「日本生まれの母と一緒に仏教会に通っていました。しかし、開教師の(英語の)話を母が理解するのが難しく、私は母のために自分が日本語で説明できるように一生懸命に聞きました。その結果、仏教の世界の素晴らしさに惹きつけられたのです」。

ガーデナ仏教会の庵原師(左)には日系人と宗教について聞いた。

そして、その日の最後、私はダウンタウン近郊のボイルハイツにある元の敬老の施設に井上さんを案内した。「和歌山県出身のフレッド和田さんという立派な方が創立者の一人で、日系人のための高齢者施設として開設されましたが、数年前に不動産会社に売却されてしまいました。かつては日系人と日本人がアメリカで引退生活を送る目標とも言える場所でした」という説明を添えた。運営を継続させるために、かつて多くの人々のお金と時間(ボランティア)という寄付が注ぎ込まれた。敬老の施設はなくなってしまった(名称を変えた高齢者施設自体は残っているが以前とは運営が異なる)が、日系のコミュニティーの存続がいかに一人ひとりの労苦の上に成り立っているかを、私は日本からロサンゼルスを訪れた社会科教師に実感してほしかった。井上さんの目にはどのように映っただろうか。

 

© 2019 Keiko Fukuda

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