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沖縄出身者のネットワーク作りに生涯捧げた金城武男さんを偲ぶ

インターネットがない時代に

2018年10月20日、北米沖縄県人会の会長も務めた「五大洲」の発行人、金城武男さんがロサンゼルス市内の自宅で亡くなった。享年96歳。

金城さんには二度取材させていただく機会があった。一度目は、在米日本語雑誌のフロントラインに「アメリカの中の沖縄」という特集記事の取材をした際だった。アメリカで活躍している新旧世代の沖縄出身者数人を人選していた時、同じく元の北米沖縄県人会長の当銘由洋さんに「金城武男さんは絶対に取材するべきだ」と強く薦められ、話を聞くことにした。

2007年に取材した当時の金城さん

待ち合わせ場所はウエストロサンゼルスにあるショッピングモールのフードコート。そこに日に焼けた顔が印象的な80歳くらいの小柄な男性が当銘さんと一緒に現れた。新聞の発行人で県人会長を務めた方だと聞いて構えていたのだが、金城さんのなんとも素朴で飾らない雰囲気に、いい意味で期待を裏切られたような気がしたものだ。

取材を始めると、率直でユーモアに溢れる語り口にすぐに引き込まれた。その素朴さは、金城さんの新聞「五大洲」の紙面のイメージそのものでもあった。世界各国の沖縄出身者の動向を一つの媒体にまとめ上げたものながら、手書き文字と切り貼りで構成された、まさに手作りの新聞。それでもブラジルのウチナーンチュがどのような活動に携わり、ロサンゼルスのウチナーンチュがどのような表彰を受けたかが一目でわかる。今のようにインターネットがない50年近く前に創刊したのだから、非常に画期的なことだったということは容易く想像できる。

当銘さんが金城さんと深く知り合うようになったのは、1990年に沖縄で開催された、第1回の世界のウチナーンチュ大会を目前に控えた時期だったそうだ。今や沖縄にルーツを持つ人が海外から数千人規模で参加、全入場者を合計すると40万人を超える大規模イベントだが、30年近く前、当時北米沖縄県人会の会長だった金城さんは「ロサンゼルス以外の、日本へのアクセスが悪いアメリカ各地からできるだけ多くの参加者を集めるにはどうしたらいいか」ということに腐心し、仕事の関係で沖縄とアメリカを頻繁に往復していた当銘さんに支援を求めたのだ。そして、沖縄県から初代のウチナー民間大使に金城さんと共に任命された当銘さんは、ウチナーンチュ大会に参加した折、金城さんがいかに世界のウチナーンチュのネットワーク構築が重要かに熱弁を振るっていた姿に感銘を受けたと振り返る。沖縄県の主導でウチーナンチュのネットワークが叫ばれているが、1990年当時、金城さんはその必要性を訴えていたのだ。先見の明があったと言うべきだろう。

第1回世界のウチナーンチュ大会時に沖縄県庁で。右から2人目が金城さん、左端が文中に登場する当銘さん

フードコートでの取材を終えてしばらくすると、私の元に金城さんから手紙が届いた。その手紙には「取材してくれてありがとう。これからも頑張ってください」と激励の言葉が書かれてあった。取材に協力してくれた方に掲載誌とともにお礼状を出すのはこちらの仕事であり、それより先に取材された方に手紙をいただいたのは後にも先にも一度しかない。

その二度目の経験が、金城さんを二度目に取材した後だった。次に会ったのは、沖縄の新聞にアメリカの沖縄出身者を紹介する連載記事を始めた頃。ここでもまた、金城さんを外すことはできないと今度はハンバーガーショップでお目にかかった。今から6、7年前のことだ。当時、90歳近かったはずだが、新聞発行は続けていた。そしてまた、その取材直後に、金城さんからの激励の手紙が届いた。想像するに、金城さんはその日のうちに手紙を書き、投函したのではないか。決めたことはすぐに行動に移す、そういう実行の人であり、私のような後進の人間に言葉をかけずにはいられない、心優しい人だった。


人材育成財団に寄付

金城さんは1922年、ハワイに生まれた。1歳で母と共に沖縄に渡り、金武村で小学校を終えた。そして14歳でハワイに戻り、さらに16歳の時にアメリカ本土へ。高校卒業を前に日米が開戦し、金城さんは日系人収容所に送られた。戦後は沖縄に帰ろうかとも思ったが、日本は食糧難だという話を耳にした。結局、1948年にロサンゼルスで庭師の仕事を始めた。そのかたわら、ライフワークとも言える新聞発行の仕事を続けた。

新聞自体は無料だったが、購読者からは寄付金が送られてきた。そのお金を金城さんはコツコツと貯金し、沖縄県に送った。アメリカから沖縄に留学する学生のために使ってほしいと、人材育成財団に寄付したのだ。権力欲や金銭への欲望とは無縁の人だったと当銘さんも故人の崇高な人柄を振り返る。

私は、その後、長男のアルバート金城さんを取材させてもらったことがある。取材当時、アルバートさんは大手建築事務所で、大学や空港、駅などの大規模な建築物の設計に携わっていた。

そして、2018年11月15日、金城さんの葬儀がロサンゼルスのダウンタウンにある日系葬儀社で営まれた。参列者の多くは北米沖縄県人会の関係者だった。お別れのメッセージを読んだ長女のイーディス金城さんの次のような言葉が印象的だった。「父は常に人に親切にすることが大切だ、と繰り返し言っていた。英語ができない一世の人の書類作成を手伝っていた。朗らかな父と話せなくなって寂しいが、彼は天国で母と楽しく過ごすと思う」。

また、友人代表のウエストロサンゼルスホーリネス教会に所属する池原勲さんが弔辞の中で、金城さんが95歳でクリスチャンとしての洗礼を受けたことを紹介した。何歳になっても前向きな気持ちを持ち続けた金城さんらしいエピソードだ。二度しか会っていない私にも、強烈なインパクトを与えた人物だった。心からのご冥福をお祈りする。

 

© 2018 Keiko Fukuda

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