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アメリカで生きていく理由 — 新納保夫さん

大卒のプライド捨ててゼロからのスタート

新一世が引退後に日本に引き揚げる話を最近よく聞く。医療費が高いアメリカでは、安心の老後が送れないということを理由に挙げる人もいる。英語を使って生活してきた人でも「医療用語や専門用語は日本語がいい。日本だと言葉の心配がない」と言う人もいれば、「やっぱり家族が周りにいて、美味しい日本食が食べられる日本がいい」と言う人もいる。

新一世が、なぜアメリカに来て、アメリカで何を得て、また、老後もアメリカに残ろうとする場合、その理由は何かに関心がある。その話を、私が所属する大分県人会の活動で知り合った新納保夫(ニイロ・ヤスオ)さんに聞いた。

新納さんは1949年の神奈川県横浜の生まれ。父親は牧師で医者、母は看護師だった。二人の兄、三人の姉の下の末っ子。両親は、第二次大戦中に中国に渡り、らい病患者の救済のために奉仕した。帰国後は横浜市内に診療所と教会を建て、そこですぐ上の姉と新納さんが生まれた。

渡米直後にナッツベリーファームで

横浜という環境柄、新納家にはアメリカ人との接点があったという。長兄の時友さんは知り合いのアメリカ人のスポンサーを得て、大学留学のために氷川丸で海を渡った。新納さん本人も医学部受験に失敗し、医者への夢を諦めた後、父の「一度広い世界を見てきてはどうか」との勧めでアメリカの兄の所へ行くことを決心する。

「1969年の7月でした。ハワイまで飛行機で飛んで、それからまた本土までの飛行機に乗り換えました」

ところが渡米前に東京のアメリカ大使館でグリーンカードを取得していたことから、ベトナム戦争の最中のアメリカでは徴兵の危険性があることがわかった。兄のアドバイスで、すぐに日本に引き返すことになってしまった。日本では改めて関東学院大学に入学し、電気工学部を卒業した。

「1974年の4月に、改めて渡米しました。最初の仕事は皿洗いやウエイターでした。今でも兄に感謝しているのは、彼に『日本で大学を出ているといっても、ここではプライドを捨ててゼロからやるしかない』と言ってもらったことです」

ワシントンDCの兄が経営する宝石店を手伝った後、友人がいるシアトルに、300ドルで買った車を運転して向かった。シアトルではガソリンスタンド、ビニルハウスでの農業、肉屋などで肉体労働に従事した。そして1976年、二人の姉が住むロサンゼルスに移ってきた。

「羅府新報を見ていたら、日系の会社が人材募集の広告を出していました。てっきり旅行会社だと思って面接を受けたら、実際は物流の会社だったんです。最初はアルバイトとして倉庫勤めから始めました。その後、営業をやってほしいと言われて、さらにセールスマネージャーになり、結局、その会社には31年間勤めました」

その間に結婚と離婚を経験した。最初のギリシャ系の妻との間に長女が生まれ、二番目のアイルランド系の妻との間には、長男と次男を設けた。非日系の配偶者とは、異文化ギャップもあり、理解を得るのに苦労したと新納さんは振り返る。「日本の会社に勤めていると、週末の時間も接待ゴルフなどで駆り出されることが多く、家族と一緒に過ごす時間が十分にとれないことを(配偶者に)理解してもらうのが難しかったですね。また、家族のことを考えて転勤も断っていたので、結局、昇進も途中で止まってしまいました。それは恨みでも何でもありませんが、やはりアメリカ人の家族と日本の会社の間で、自身のバランスをとることは非常に大変でした」


移民局での足止めでアメリカ市民権取得を決意

2011年に物流会社を退職した新納さんは、その翌年、日本の八鹿酒造のロサンゼルス地区のセールスとして新たな人生をスタートさせた。その会社が大分県の企業という関係から、新納さんと私は県人会で知り合った。その頃すでにアメリカ生活が50年近くになる新納さんに、この国で何を得たかを聞いた。

「アメリカは自由を与えてくれ、何の束縛もなく生活ができた場所です」

そして、トランプ大統領が就任した後、長年、永住権保持者だった新納さんは市民権を取得した。「2015年、教会の関係でヨルダンを訪ねた後、ロサンゼルス空港で移民局に数時間足止めされました。永住権を持っていたにもかかわらず、なぜあんな危険な国に行ったのかと怪しまれました。その後、弁護士に相談したところ、トランプ大統領になれば、さらにそういうことが起こる可能性があるから市民権を取得した方がいいとアドバイスされ、実行に移しました」

しかし、日本に帰るという選択はないのだろうか?「(アメリカの)高い医療費が払えなければ日本に行かなければならないかもしれませんが、今のところはアメリカにいるつもりです」。新納さんの「日本に行く」という言い方が、すでに「帰る」意志がないことを物語っている。

「自由をくれたアメリカに恩返しがしたい」と話す新納さん

最初の頃、一度(ベトナム戦争で)日本に帰って、その後アメリカに来ることがなかったら、今頃どうなっていたと思うか、とも聞いてみた。

「わがままな私は、日本の社会で潰されていたのではないかと思います。アメリカに住まなければ大きな世界観を持つ人間になれなかったでしょう。後何年生きるかわかりませんが、少しでもアメリカのために恩返しがしたいです。私にできることであれば、困っている人に援助をしたいし、またアメリカにいる兄や姉に恩返しがしたいと思っています」

取材をしていた1時間ほどの間にも、新納さんを訪ねて日本人の知り合いが二人、彼の家にやってきた。荷物を預かったり、書類の作成をしてあげたりと、手助けを積極的にしているそうだ。直接的に恩がある人に返すだけでなく、新しくアメリカに来る世代に手を差し伸べることも大きな意味がある。助けられた側の人は、アメリカ生活が長くなった時に、今度は次の世代の役に立とうとするからだ。

2年後に70歳を迎える新納さんだが、日々、ワークアウトに精を出し、聖書の研究にも余念がない。今後も健康第一で、日米や世代間の架け橋としての活動を続けてほしいと心から願う。

看護師や弁護士など専門職に就いた子どもたちと  

 

© 2018 Keiko Fukuda

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