ディスカバー・ニッケイ

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デイ 多佳子

(Takako Day)

@takako70

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)


この執筆者によるストーリー

シカゴの日本人キリスト教徒
加藤勝次:精神的救世主から医療従事者へ - パート 3

2022年3月6日 • デイ 多佳子

パート2を読む>>加藤勝治氏、 The Japanese StudentとThe Japan Reviewの発行人として加藤は、1860年代のアメリカにおける初期の日本人留学生の歴史1と日米関係に関する書誌2を執筆したが、それは「アメリカと日本の知的関係に関する正確な情報を広めることで過去の記録を保存し、いわゆるアメリカにおける日本人問題の解決、日本人留学生の人生哲学における精神的かつ理想的な態度の創造に貢献しなければならない」と考えたからである3 。 191…

シカゴの日本人キリスト教徒
加藤勝次:精神的救世主から医療従事者へ - パート 2

2022年2月27日 • デイ 多佳子

パート 1 を読む >>加藤勝治は日本人学生の宣教師として海外宣教のための学生ボランティア運動は 1886 年にニューヨークで始まり、シカゴ大学のキャンパスにある海外宣教のための学生ボランティアバンドは「1888 年に組織された国際学生ボランティア運動のメンバーで構成されていました。」 1 1895 年、海外宣教のための学生ボランティア運動のシカゴ支部は、シカゴ伝道協会の国内および海外宣教のための聖書学院 (後にムーディー聖書学院となる) 内に設置され、インステ…

シカゴの日本人キリスト教徒
加藤勝次:精神的救世主から医療従事者へ - パート 1

2022年2月20日 • デイ 多佳子

はじめに:ミシガン州カラマズーの永井荷風永井荷風は、1908年に日本で出版された短編小説集『アメリカ物語』の著者である永井惣吉のペンネームで、4年間のアメリカ生活の経験に基づいています。この本の中で荷風は、経済的に恵まれた少数のエリートで教育を受けた日本人がアメリカにやって来て東海岸に定住した一方で、アメリカに移住した貧しい日本人労働者や学生の大半は西海岸に定住したと書いています。1さらに、彼は苦しんでいる西海岸の日本人を「醜い劣等人種」と呼び、 2彼自身の階級意識と自国民…

戦前のシカゴにおける疑わしい接触点
アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親和性 - パート 5

2022年1月9日 • デイ 多佳子

パート4を読む>>フランク・マスト・コノフランク・コノ(シカゴの日本人相互扶助協会の会計幹事を務め、1943年に他の3人の日本人とともに逮捕された一世)が真珠湾攻撃の知らせを聞いたとき、彼はシカゴのサウス・インディアナ・アベニュー4248番地にある彼のレストラン「インディアナ・レストラン」で働いていた。1その後すぐに、FBIがやって来てコノの家を一度ならず二度も捜索し、FBIと移民帰化局から計7回呼び出された。しかし、彼らは何も疑わしいものを見つけず、その後2年…

戦前のシカゴにおける疑わしい接触点
アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親和性 - パート 4

2022年1月2日 • デイ 多佳子

パート3を読む>>サミュエル・イチエ・ハヤカワとシカゴ・ディフェンダー優れた意味論学者、英語教授、詩人、シカゴジャズの歴史家、そして米国上院議員である S.I. ハヤカワは、シカゴ・ディフェンダー紙に連載コラムを書いた最初の非アフリカ系アメリカ人でした。1 1942 年11月、ディフェンダー紙は5 人の新しいコラムニストを発表し、当時イリノイ工科大学で意味論の教授だった S.I. ハヤカワもその 1 人でした。2週刊コラムニストになる機会を与えられたとき、彼は「…

戦前のシカゴにおける疑わしい接触点
アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親和性 - パート 3

2021年12月26日 • デイ 多佳子

パート2を読む>>社会学者の川村忠雄とシカゴ大学ハリー・ジツゾウ・ハラダ(1919年12月15日にブッカー・T・ワシントンに日本人移民についての意見を尋ねる手紙を書いたジャーナリスト)がアフリカ系アメリカ人に関する本を書き上げたかどうかは、現時点では不明だが、カワムラ・タダオは実際に書き上げた。カワムラはシカゴ大学で学んだ社会学者で、彼の著書「アメリカ黒人の研究」は、戦前に専門的に調査され執筆されたアフリカ系アメリカ人に関する最初の日本の本と考えられている。1し…

戦前のシカゴにおける疑わしい接触点
アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親和性 - パート 2

2021年12月19日 • デイ 多佳子

パート1 >>シカゴのブッカー・T・ワシントン、マーカス・ガーベイ、原田実三1887年にブッカー・T・ワシントンによって設立されたアラバマ州のタスキーギ大学は、一部の日本人によく知られていた。なぜなら、「翻訳された『奴隷からの解放』を読んだ日本人は、タスキーギの方法を、西洋に遅れをとっている自国の技術的遅れを克服する手段の1つとみなした」こと、またタスキーギが「アフリカ人だけでなく、西インド諸島人やアジア人の聖地」であったことなどである。1 タスキーギ大学に入学…

戦前のシカゴにおける疑わしい接触点
アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親近感 - パート 1

2021年12月12日 • デイ 多佳子

導入1943 年 12 月、忠実な日系アメリカ人が強制収容所を離れ、シカゴ、クリーブランド、カンザス シティなどの中西部の都市に移住していたとき、4 人の日本人一世男性がシカゴで FBI に逮捕されました。彼らは、シカゴに 20 年以上住んでいたチャールズ ヤスマ ヤマザキとフランク マスト コウノ、仏教僧侶の松岡宗勇、オレゴン出身の医師ロバート ハジメ シオミでした。松岡とシオミはシカゴに来たばかりでした。マツオカは 1940 年 6 月に渡米し、南カリフォルニアとコロラ…

アメリカ人に「スケベ」という言葉を教えたのは誰か?:シカゴの日系アメリカ人コミュニティにおけるスケベ- パート 3

2021年10月24日 • デイ 多佳子

パート2を読む>>シカゴのアーマーアベニューにある日本の「スケベ」 1910 年に作成されたシカゴの「歓楽街」地図によると、アーマー通りには 2 つの日本人売春宿がありました。1 つはカラートン ストリート (20番街) と 21 番街の間にあり、もう 1 つは 21 番街と 22 番街の間にありました。これらの日本人売春宿のそれぞれの隣には中国人売春宿がありました。これらの売春宿には約 35 人の日本人売春婦がいました。「日本人と中国人の売春宿は白人男性のみを…

アメリカ人に「スケベ」という言葉を教えたのは誰か?:シカゴの日系アメリカ人コミュニティにおけるスケベ- パート 2

2021年10月17日 • デイ 多佳子

パート 1 を読む >> 「スケベ」と1893年のコロンビア万国博覧会1892 年、翌年に開催されるコロンビア万国博覧会への日本出展の準備のため、さらに多くの日本人がシカゴに到着し始めた。シカゴ・トリビューンは、「日本人の大規模で絶えず増加し、しっかりと定着したコロニーが見られた」と報じた。1 1892 年 11 月、博覧会の責任者 (公式建築家の久留正道、秘書の山辺吉彦、日本館を建設する 25 人の大工など) を含む約 40 人の日本人が、コーネル通り 550…

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