ディスカバー・ニッケイ

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デイ 多佳子

(Takako Day)

@takako70

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)


この執筆者によるストーリー

シカゴの日本人女性
第3回 母と子のために母の会

2023年4月9日 • デイ 多佳子

パート2を読む>>島津美咲はヨネとともに、1913年に子どもたちの監督と養育を行う「母の会」を設立した。この施設は島津夫妻の住居としても機能していた。1 施設を開設した理由の1つは、ヨネ自身が母親になったことだった。1913年頃、子どものいなかった島津夫妻は、男の子と女の子の2人の日本人の子どもを養子として迎え、育て始めた。養子となったとき、1909年にニューヨークで生まれた女の子のフミコは4歳、1906年にミズーリ州セントルイスで生まれた弟のヨシオは6歳だった…

シカゴの日本人女性
第2部 女性のために――日本婦人会

2023年4月2日 • デイ 多佳子

パート 1 を読む >> 1911年5月、島津米は日本婦人会(日本人婦人クラブ)を設立しました。クラブの目的は「慈善活動、不幸な日本人への恩恵、日本人婦人同士の親睦の促進、個人の人格形成」でした。クラブには約40名の会員がおり、日本人女性と日本人男性と結婚したアメリカ人女性で構成されていました。クラブは JYMCI (Japanese Young Men's Christian Institute) で会合を開き、そこで読書、おしゃべり、編み物、手芸、ア…

シカゴの日本人女性
第1部:原よね

2023年3月26日 • デイ 多佳子

戦前のシカゴでは、日本人の人口は非常に少なかったにもかかわらず、1893年のコロンビアン万国博覧会の直前から、さまざまなグループや組織が結成されていました。戦前のシカゴの日本人コミュニティの中心となった組織の一つが、1908年から1929年まで島津美咲が率いた、日本人青年キリスト教会(JYMCI)(地元では日本人YMCAとして知られていました)でした。シカゴの日本人のために約20年間活動したJYMCIの活動は、島津美咲だけでなく、その妻である島津ヨネのたゆまぬ努力の成果でし…

戦前シカゴの日本人
シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その2

2023年2月14日 • デイ 多佳子

その1を読む >>  長老派のサラ・カミングスに導かれて、1886年にシカゴにやってきたのが菱川やすである。1871年に婦人一致海外伝道局が横浜に開いたミッション学校(The English Speaking School for Japanese Young Ladies — のちの横浜共立学園)を卒業したやすは、金沢でサラの手伝いをしながら、医学の手ほどきを受けた。シカゴでは、サラの母校、シカゴ女子医科大学に入学、1889年に卒業した。専門は…

戦前シカゴの日本人
シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その1

2023年2月13日 • デイ 多佳子

戦前シカゴにやってきた日本人の掘り起こしを進めていて、一番心を惹かれ、元気をもらうのは何といっても明治女性たちの心意気と才能に触れるときだ。彼女たちのエネルギーから浮きあがってくるのは、出会いに彩られる人生の不可思議と歴史なるものの滋味・妙味である。 戦前シカゴの日本人の特徴はクリスチャンが多かったことだ。25年以上にわたってシカゴの日本人を対象に伝道活動を行った島津岬は、1914年に日本人キリスト教会を設立した。一方、仏教会は、収容所からシカゴへの転住者が増える19…

イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(第6部):第一次世界大戦後のシカゴにおける日本のアクロバットと芸能人

2022年10月30日 • デイ 多佳子

第2章(パート5)を読む>> 残念ながら、第一次世界大戦後、日本の演奏家にとって状況は変わり始めました。1924年の移民法により日本からの移民が完全に禁止される直前の1922年2月、シカゴ駐在の桑島領事は内田外務大臣に次のように報告しました。 「浪花節や琵琶法師、落語家など、日本の特殊で専門的な芸能人は、興行で利益を得ることはできない。しかし、アメリカ人が経営する劇場では、日本の雑技団が時々公演しているのを目にすることができるが、その演技は西洋人の演技に比べると…

イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(第5部):シカゴの日本の雑技団と芸人—難波熊太郎とその一座

2022年10月23日 • デイ 多佳子

第2章(パート4)を読む>> アメリカが第一次世界大戦に参戦するころには、難波はシカゴの 1227 E. 71 stから 6348 Dante Avenue に移転していた。この住所は「難波ハウス」として知られ、多くの日本人芸人が出没した。1 他の住人は、俳優の戸塚豊吉 (24 歳)、佐藤勝美 (23 歳)、藤沢大五郎 (23 歳)、リングリング・ブラザーズ・サーカスの柔術芸人だった高木朝重 (23 歳) などの芸人だった。2数年後、佐藤勝美は独立した芸人となり…

イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(第4部):シカゴの日本の雑技団と芸能人—難波熊太郎と子供雑技団

2022年10月16日 • デイ 多佳子

第2章(パート3)を読む>> 「ナンバ」という姓は、1910 年のシカゴ国勢調査に登場し、35 歳の劇団マネージャーのオトラ・ナンバと 26 歳の曲芸師トキ・ムラタがシカゴの 1227 E. 71 st Street に住んでいたことが記録されている。オトラは 1890 年に 15 歳で、ムラタは 1900 年に米国に渡った。1難波おとらがいつシカゴに来たかは不明だが、ヴォードヴィル女優だったおとらは、1894年にメキシコで日本人の動物調教師、百済与坂と結婚して…

イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(第3部):シカゴの日本人アクロバットと芸能人 - アクロバットからアメリカ人へ

2022年10月9日 • デイ 多佳子

1904 年の日本の軽業師たち。(議会図書館、映画・放送・録音部門)第2章(パート3)を読む>>アメリカで日本の劇団が人気を博し、人々を魅了した主な理由の1つは、小さな子供たちを出演させることでした。たとえば、北村の幼い娘はピーチ ブロッサムと名付けられ、彼女の笑顔はアメリカの観客にとって非常に魅力的でした。1 鉄割劇団の「メンバーは幼い頃から訓練を受けていました。彼らは、腕や手とほとんど同じように、足や脚の使い方を教えられました。」 2彼らのうちの一人、ヨサ…

イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(第2部): シカゴの日本人雑技団と芸人 - シカゴの住人として

2022年10月2日 • デイ 多佳子

第2章(パート1)を読む>>ここに定住した新しいタイプの日本人芸人の一人が、福井出身の曲芸師、北村福松だった。北村一座は海外ツアーのためだけに設立され、シカゴに立ち寄るなど、最初の米国ツアーは 1890 年に行われた。1彼らは 1901 年に、曲芸師の北村帝国日本一座としてシカゴに戻った。2 その中には、曲芸師だった北村の妻ヒサ (37 歳) と娘のカネ (18 歳) を含む 17 人のメンバーがいた。3北村はその後数年間ニュージャージーを拠点に選び4、1904…

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