日本人ホテル業への苦言
このような発展の中で、『北米時事』にはホテル業の発展を讃える記事と同時に、高いホテル代やホテル売買の行き過ぎに苦言を呈する記事も多く見られた。
「日本人ホテル業跋扈(ばっこ)は将来の禍根とならむ (一)」(1918年10月16日号)
「日本人経営のホテル業は目下約250軒ある。海岸通りから第7街にかけて百余軒のホテルは日本人が経営している。南部シアトルの主なる労働者相手のホテルは殆んど日本人経営とみてよい。これらホテルの客は概ね白人労働者、殊に造船所に勤務する人を主とするものである。
ホテル業者が不親切にして白人客が日本人ホテルに対して反感を抱き不平を漏らし居ることは再三本て警告したが、近来更に値上げ又値上げ宿泊料は天井を知らず。高ければ止せと言ったり苦々しい次第である。『ホテルに使用する労働者賃金が上がった。洗濯料が高くなった。宿泊料値上げは当然である』と営業者は説明しておるが、今日宿泊料の値上げは総ての材料の騰貴に比較もできない上がり方である。
従来一晩50仙位の室を今日1ドルないし1ドル50仙を請求して居る。甚だしきに至ると客の足下を見て一室を2ドルにて貸して居るのは無法である。ホテル売買が盛んになった結果(中略)一室100ドルなど云ふ高価を払って責負された斯様な馬鹿相場であるから、勢い宿泊料を法外に上げねばなるまいが、客こそ迷惑至極である」
沖山栄繁は「沙港同胞ホテル業の将来」1919年1月1日号でこの苦言に対して次のように述べている。
「発展に伴う弊害を否認する事は出来ない。その第一は、一昨年以来ホテルの購買価額が暴騰した為、投機的傾向を帯びた結果、売買頻々として行われ、屋主に杞憂の念を抱かせた事。第二は、好景気に連れ、足元を見て法外の室代を要求し顧客に不快の念を与へし事。第三は主客位置を転倒して顧客取り扱い上、誠意と親切とを欠きし事。
前二項は法外な高価にてホテルを買入した為、室代の値上げを余儀なくされし事で新規経営者に往々見る所。後者は新古経営両者を通じて見らるる所なれば、相互に反省して顧客本位に親切と誠意を以て彼ら白人士を待遇せられん事を希望するのである。
ホテル業者が顧客に好感情を与へる事は唯(ただ)にシアトル市民の対日感情を円満にするのみでない。各州よりの訪問客によって米国の隅から隅ま電波的に人の口により吹聴せられその影響する所、極めて大なると思う。日本民族の発展のため、シアトルホテル業の将来のため、深重(しんちょう)、誠意努力せられん事を切望して止まない次第である」
沖山栄繁は、1920年1月1日号によるとホテル業界の重鎮であるだけでなく沖山商会を設立して貿易業も手掛け、年齢33歳の将来有望な人物だと評されている。1934年以降に2回、日本人会長も歴任している。なお、筆者の祖父である與右衛門(よえもん)の1928年の葬儀には友人代表として参列した。
1939ー1940年の日本人ホテル
「ホテル組合の今年度役員」(1939年1月18日号)
「シアトル日本人ホテル組合は『マネキ』にて総会を開催。出席者120名今年度役員に左の諸氏が当選した。組合長、早野時寛(ときひろ)、副組合長、松田熊太郎、同、辻本和橘(かずきち)、専務理事、原誠一、理事、藤井寿人(ひさと)、議長、近村改蔵、同議長、山本庄助、顧問、沖山栄繁、顧問、白石万之助、尚組合現在の加入ホテル数は207軒」
1940年1月13日号において「ホテル組合、役員決定」の記事があり組合長に辻本和橘氏、会長だった早野時寛氏は顧問となった。出席者129名、当時の組合員は213名だった。
北米時事社社長の有馬純義(ペンネーム花園一郎)が自身が執筆したコラムの「北米春秋」で、素晴らしいシアトルでの日本人ホテル業を日本に持ち込めないかともちかけている。
「北米春秋ーホテルマン諸君の日本進出は不可能か」(1939年1月18日号)
「東京にもホテルは段々できてきているが、まだまだ安価でアットホームの感を与え然も比較的経済的なホテルというものがない。(中略)大阪や神戸にはホテルというものが殆どない。(中略)そこで僕は考えた。在米同胞のその道の経験者、成功者の諸君が一つホテル会社を組織して日本にアメリカ式なホテルを経営してはどうであろうか。(中略)
ホテルの経営は何といっても米国流が一番いいのではないか。そしてその経験を持つ在米のホテル・マンが一つ奮発して日本に米国式ホテルを経営するというのは、決して不思議ではない。又米人のツーリストを日本に誘致し、満足と愉快を与えうるのも在米ホテル・マンに如(し)くはない筈である」
シアトルに於ける日本人ホテルが当時の日本から見ると如何に卓越したものであったかが伺える一文だ。
ここまでで取り上げた記事を見ると、日本人が経営したシアトルでのホテル業の発展が明らかにわかる。1918年には、その数は約140軒、1919年には200軒以上と、すでに凄まじい発展を遂げていた。その繁栄はその後も持続し、1939年に207軒、1940年に213軒の日本人ホテルが健在していた。
エスラー通り以南のホテルは、ほとんどが日本人経営のホテルだった。『北米百年桜』の地図を見ると、エスラー通り以南に33軒の日本人ホテルが記されている。宮川万平の「ピューゼットサウンドホテル」、藤井長次郎の「藤井旅館」、国宝建築物として現存する「パナマホテル」等だ。
筆者の祖父である與右衛門は、シアトルで理髪業に成功した後、1928年にホテル業に挑戦した。『北米時事』の記事を読むことで、ホテル業が與右衛門にとってあこがれのビジネスだったことが改めてよくわかった。
次回は日系人の生活を支えた邦字新聞について紹介したい。
(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
参考文献
寅井順一『北米日本人総覧』中央書房、1914年
『北米年鑑』北米時事社、1928年
伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
*本稿は、『北米報知』に2021年12月4日からの転載です。
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