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日系(ニッケイ)—をめぐって

第17回 中国残留孤児、3世はルーツへの困惑

日本と中国の国交が結ばれたのが1972年。いわゆる日中国交正常化から今年の9月で50年を迎え、国交正常化によって日本への帰国の扉が開いた「中国残留孤児」についての特集が報道されている。

中国残留孤児については、国による調査や帰国援助、また帰国後の生活支援が長年すすめられてきたが、改めて、中国残留孤児とその家族の歴史を振り返ると、日本と中国との狭間で生きてきた人たちが抱えてきたアイデンティティーの問題が浮かびあがる。そこには、アメリカや南米などの日系人の抱えた問題との類似性がみられる。

太平洋戦争が終ったとき、当時の満州(現在の中国東北部)には開拓団などとして多くの日本人が暮らしていたが、ソ連の対日参戦によって、さまざまな事情によって親と離別(死別)するなどして中国に取り残され、その後中国人に育てられた日本人孤児がいた。一般に中国残留孤児と呼ばれた人たちだ。

日中国交正常化により、こうした中国残留孤児の身元調査と日本への帰国を希望する人への支援事業がはじまり、これまで身元が明らかになった6700人余りが日本へ永住帰国した。家族を含めるとその数は2万人以上にのぼる。

幼いころに親元を離れ中国人に育てられた人たちには、親の手がかかりとなるものは少なく、また日本語を話すことはできず、身元の確認は難航することが多かった。ようやく身元が明らかになっても、すでに両親は他界してることもあった。

1980年代に、身元確認のために日本を訪れた孤児が、親だと思われる日本人を訪ねた現場を、一度私も取材したことがある。ある孤児の女性が静岡市に住む親を訪ねたときのことで、高齢で床に伏していた父親と何十年ぶりかの対面を果たした。

詳しくは忘れたが、日本の敗戦の混乱期にこの女性は赤ん坊で、満州で親に連れられて逃げていた。赤ん坊だから泣く時があるが、それがソ連兵に聞こえたらまずいと、一緒にいた日本の軍人に銃剣で喉を刺された。その後親と離れ現地で亡くなったと思われていたが、中国人に保護され育てられていた。

日本を訪れ父親と対面した時に、親子だと確認できた証拠の一つが、女性の首に残っていた傷跡だった。

多くの残留孤児がこうした苦難を経て、日本への帰国をようやく果たし、また、本人だけでなく、家族も来日した。こうした家族はやがて日本で家庭をもち、子どもをもうける。本人からすればすでに孫の世代が日本で暮らしている。帰国した家族や日本で生まれた子や孫の数は合計で10万〜15万人とされる。

このなかで、中国残留孤児の孫の世代にあたる3世を対象にした、アンケート調査の結果をまとめた記事(飯田憲記者)が9月24日付の『毎日新聞』で掲載された。アンケートは『毎日新聞』が今年の7、8月に、2世を対象とした全国の支援団体や日本語教室などを通じて3世に対して行ったもので、10代〜50代の男女114人が回答した。

日本人を親にもち、中国人に育てられ、日本に帰国するという人生を送った中国残留孤児を祖父母にもつ3世は、自身のルーツについてなにを知り、またどう思っているのかなどが調査から知ることができる。

同紙に掲載された調査結果を要約すると以下のとおりである。

回答した3世の出生地は、日本と中国がほぼ同数で、日本で暮らしてきた期間が10年を超える人が9割以上。また、学歴は「大学・大学院卒」が5割弱。学生を除く大半の人が仕事に就き、8割近くが経済状況について「余裕がある」「少し余裕がある」と回答している。

自分のルーツについては、「過去に中国ルーツを話せなかったり、隠したりした経験はあるか(理由は複数回答可)」という質問に対しては、「ある」が62人で「ない」(52人)を上回っている。また「説明が面倒だった」(40人)、「いじめられると思った」(30人)、「恥ずかしかった」(13人)、「その他」(37人)となっている。

また、「1世に、戦後から帰国するまでの話を聞いたことは?」という質問には、「ある」が67人で、「ない」が47人。この47人のうち「すごく知りたい」が8人、「多少は知りたい」が30人、「知りたくない」が8人、「無回答」1人となっている。


「自分は何者か」向き合う

アンケートでは、「周囲にどんな配慮を望むか」について、自由に書いてもらったところ、「ルーツに関係なく、自分という人間をフラットに理解して」、「残留邦人の歴史を知ってほしい」などの声が寄せられたという。

この調査に関連して、紙面ではアンケートに答えた3世にインタビューをして、その胸の内を紹介している。

37歳のある女性は、祖母が残留孤児で1976年に日本に帰国、両親も83年に来日、この女性は日本で生まれた。日本では中国人に対するネガティブな情報が多いと感じ、親のぎこちない日本語が友だちに聞かれることがいやで、親に出自を隠してほしいと思ったという。

このように自身のルーツに対して複雑な気持ちを抱き、苦悩するなかで、「自分が何者なのか」という問いに正面から向かうことができない場合があるようだ。このアンケート調査に関連して、その後同紙では「私(わたし)と我(Wō)のはざまで 中国残留孤児3世」と題して、3回にわたり3人の3世の生き方を紹介している。

苦悩しながらも自分のツールをみつめて歴史をたどり、自分は何者なのかを考えて、そしてどう生きるかを模索していった姿勢をていねいに記している。

彼等はいうならば日系であり、また中国系である。2つのルーツをもつということは、ただでさえアイデンティティを自問するなかで混乱することがある。まして、かつての日系アメリカ人のように、戦争によって2つのルーツが反目し合うような状況にあった時、混乱は極まる。戦時中の若き日系2世を描いたジョン・オカダの小説『ノーノー・ボーイ』のなかで主人公イチローが抱える苦悩はその象徴だ。

記事にあるように、日本人の対中国感情が悪化していくようなときは、2つのルーツを意識せざるを得ない2世、3世の苦悩は大きい。しかし、また異なる文化をもち、時に反目する2つの国の間に立って、橋渡しに一役買うことができるのも、こうした2つのルーツをもつ人たちである。見方をかえれば、彼らから日本人、また中国人が学ぶことも決して少なくない。

 

© 2022 Ryusuke Kawai

Japanese orphans left behind in China manchuria roots

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。