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香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第3部:金子正則知事の南米訪問とその主な見解

元裁判官だった金子知事は、1950年から6期24年間も香川県知事を務めた。県の特産品である「讃岐うどん」を全国に広めた立役者の一人でもある。在任中の1956年、アメリカ国務省による指導者交換事業計画の招聘で、アメリカに3ヶ月間滞在し、その後2ヶ月南米4カ国(ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)を訪問し、同県民の移住事情などを視察した。

今雪氏との共著「南アメリカを旅して」の第2部には、知事の詳細な日記と訪問先の観察記録が綴られている。とてもタイトな日程で、今雪氏がその2年前に一年間で訪問した主な地をたった60日間で移動している。知事もこの同胞の海外移住は単に日本の人口増加に対する解決策として推進するのではなく、日本企業の海外進出をサポートできるような移住を促進すべきで、日系人の人脈をもっと活用すべきだと主張している。そうすることで、日系人たちの役割も重要視され、社会的地位向上にもつながるのではないかと期待していた。移民受け入れ国の開発や発展に寄与することが敗戦日本の進むべき道として、日本の若者にこのような大きな挑戦を呼びかけた。

知事という役職柄、地元政府高官や日本人会との会合が多く、移住者と夜遅くまで飲み会を行うことも多々あったようである。今雪氏の報告書を渡航前に読んでいたこともあり、知事の見解は、今雪氏と類似したものがある。その一部をここに紹介する。

  • 戦後直後のブラジルにはすでに40万人の日系人がいる。農業での貢献は凄まじく、ブラジル国民もそれを認めており、日本人に敬意を払っている。戦時中日本語が禁止されていたとはいえ、移住地などではまだ日本語が母語になっているので、これまで以上にポルトガル語を覚えて経済活動を拡大し、社会進出してほしい。

  • パラグアイは、戦前に笠松尚一氏が測量主任としてブラジルからラ・コルメナ移住地の整備に関わった。彼がこの国の香川県移住者第1号である。第2号の村尾正一氏は1938年にラ・コルメナへ移住したが、その後エンカルナシオンに転住した。戦後移住地のチャベスは、原始林の中に位置し、厳しい状況にあった県民の村星氏と森田氏、そして横川氏と関氏から、朝方まで飲みながら話を聞いた。夕方の飛行機に乗るため、移住地から10キロ程度離れたエンカルナシオン空港までの悪路を自転車で行った。この地域には、すでにドイツ人移住者2500家族が入植しており、かなり成功を収めているので彼たちの農業運営は参考にできる。

  • アルゼンチンのブエノスアイレスでは、花卉栽培に従事している県民家族(細川氏、平井氏1、二宮氏等)が暖かく迎えてくれ、いろいろ案内してくれた。

  • ウルグアイでも花の栽培と販売に従事している日本人と懇談。モンテビデオの街並みや市民の切り花を好む側面はブエノスアイレスと似ている。

ウルグアイからブラジルに戻り、サンパウロからアマゾンのベレンに行き、トメアス移住地を訪れ、入植当時から通訳として活躍した香川県出身の星野修氏や野上又一氏と会った。ここで、胡椒で成功した日本人の大豪邸や産業組合や学校、病院の建物を目にし、びっくりしたようだ。また、アマゾン開発の可能性を評価しながらも、あまりの広大な土地でベレンからマナオスだけでも1300キロ、東京ー長崎間の距離と同じなので、日本人がそうした事業に関わることは慎重に判断すべきだと指摘している2

金子知事は、3か月にわたるアメリカを含む計5ヶ月間の海外視察を終えて、香川県に戻り通常の公務に戻る。その後も「香川県移住協会」会長として海外県民のために尽力し、1957年9月には、貴重な資料となる「南アメリカを旅して」を刊行する3

今雪氏の子孫とのつながり 

最後に私の関わりのある今雪氏の子孫について少し述べておきたいと思う。今雪氏の子孫の多くはブラジルやパラグアイにいるが、アルゼンチンにも一人いた。幼いころから「平井さんのおばちゃん」と呼び親しんでいた今雪氏の四女ヒロさんである。ヒロさんは、先生の教え子で助手でもあった平井栄伝(しげつぐ)の妻として、1955年6月にアルゼンチンに到着した。私の父はその2年後の1957年、戦後の外務省農業実習生第1号としてアルゼンチンへ移住し、1961年に母と結婚したので、両親はこのときから平井家には大変世話になっている。

余談であるが、今雪先生が南米を視察していた頃、父は神奈川県の農林省農業技術試験所の園芸部で勉強していた。今雪氏が南米視察から戻った後、父は数日間先生の家で寝泊まりしていろいろな話を聞き、助言してもらったことがあるという。この時の話などもあり、8人兄妹の7番目だった父は、農業技術試験所の教授から推薦をもらい、最終的にアルゼンチン移住を決断したという。

ヒロさんの夫、平井栄伝氏は、赤ワインが大好きで、常に日焼けしていたことを覚えている。それは北部のミシオネス州に所有していた草花の農園からトラックでいつも行ったり来たりしていたからであると後から知った。いつもニコニコして同県人だけではなく誰に対しても面倒見が良かった。残念ながら1985年に亡くなるが、その後妻のヒロさんは大好きなミシオネスで過ごした。夫が残した農園とその亜熱帯な気候が気に入っていたようである。

最後にお会いしたのは2019年9月、私が里帰りしたときである。昨年の2020年8月、86歳で死去したが、ヒロさんは俳句や川柳が好きでいくつかのコンクールで入選している。その一部をここで紹介する。

《俳句》
天の川 老いて移民と なりし父母
コスモスや 少女たわむれ あうごとく

《川柳》
パンパスの風土の中に天と生き 
訪日は瀬戸大橋の渡りぞめ

そして、ヒロさんの長女エリサさんは、現在日本に住んでいる。2010年頃にこの日本で再開して以来、時々他の仲間とともに会食している。しばらくして、共通の在日南米日系就労者の支援に関わっていることが分かった。偶然とはいえ、今雪先生や諸先輩の思いが導いたのかもしれないと思わずにはいられなかった。

現在、エリサさんは介護施設で働いており、5年前からスペイン語で介護予防教室「Siempre Genki(いつも元気、これからも元気)」を神奈川県各地で開講している。主にペルー人の年配者が参加しており、とても好評だという。私も数回見学させてもらったが、みんな楽しく参加し、いろいろな悩みについては互いに情報交換していた。

今雪先生の志が、この日本でも面倒見いのいい孫のエリサによって、受け継がれている証がある。

今雪先生の孫娘エリサ平井の「SIEMPRE GENKI」での予防教室活動(2021年現在)

注釈:

1. 今雪氏の四女ヒロと結婚

2.知事の記録では東京ー長崎とあるが、直線距離だと900キロしかない。ベレンからマナオスは1300キロあり青森から鹿児島までの距離である。2021年現在、陸路で行く場合はロンドニア州のポルトベリョを迂回していくしかないため、その倍以上の3000キロある。飛行機を利用すれば、3時間ぐらいで移動できるが、現在はフェリーで乗り換えをしながら2日間、観光遊覧船だと5~6日間の航路である。

3. 県庁サイトの「南米移住」には、近年の知事の南米訪問などの情報が掲載されている。
香川県総務部知事公室国際課 


参考資料:

今雪真一・金子正則、「南米アメリカを旅して」、香川県広報文書課発行、1957年。

「アルゼンチン香川県人会」、創立35周年記念誌、2005年。

第5章:「『移民の父」今雪先生の四女、平井ヒロさんの歩んだ道」、香川県南米移住史、135頁151頁、2004年。

 

© 2021 Alberto Masumoto

argentina Brazil immigrants Kagawa Paraguay Shinichi Imayuki Urguay

このシリーズについて

香川県の海外移民の父として知られる今雪真一氏は、香川県立農林学校の教諭で、教え子はじめ多くの県民を戦前から戦後にかけ海外へ送った。南米へ移住した古い世代の香川県民で今雪氏のことを知らない人はいないというほど、香川移民への影響は大きい。1954年には約一年にわたり南米4か国を視察し、移住した899家族から話を聞いて回った。この時の経験から、1961年には自らもブラジルへ移住を決意し、そこで生涯を終えた。このシリーズでは、今雪氏の南米訪問や海外移住に対する考えなどを3回に分けて紹介する。