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シアトル日系人会前共同会長・田原 優さん -その1

戦後のシアトルにやって来たひとりの青年は、日系コミュニティーに根を下ろし、1世、2世の活動を引き継ぎます。後に、先人たちの歴史と文化をぜひ日系3世、4世にも伝えたいと、英文でまとめ始めました。そうして日本語と英語の橋渡し役を担うことに情熱を傾けてきた田原優(たはら・まさる)さんは、鮭釣りでも知られる人物。50年以上を共に歩んだ日系の釣り同好会「天狗クラブ」の歴史を大切にしています。

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天狗クラブを語る

︎インタビューで、天狗クラブの話に熱の入る田原さん

シアトルの日系コミュニティーが戦前に始めた釣り同好会である天狗クラブは、戦後間もない1946年に復活した。シアトルの日系コミュニティーにおいて、釣りは1920年代から人気がある。︎

日系商店がトロフィーを提供し、多くの人が腕を競った。田原さんによれば、1936年に発行された『北米年鑑』には、釣り道具を扱う日系商店が8軒も記載されているとのことで、そのにぎわいぶりが窺える。1937年には有志が天狗クラブを発足させ、エリオット湾内のアルカイポイントとマグノリア、シアトル・ウォーターフロントを結ぶ水域でのブラックマウスサーモン・ダービー(黒口鮭競釣)が始まった。

天狗クラブの催すサーモン・ダービーでは、冬の数カ月間、毎週日曜にエリオット湾に出て釣果を競う。エリオット湾内の鮭釣りと言えば、ドワミッシュ川遡上直前の成熟鮭を狙う夏と秋が本番。しかし、その繁忙期には日系人グループにボートを貸し出す業者がおらず、まだ産卵時期にない鮭(通称、黒口鮭)を釣る冬の大会として始まったのではと、田原さんは推測する。天狗クラブは、年会費や当日の参加費を払えば、黒口鮭釣りを楽しむ人なら人種や国籍問わず誰でも受け入れてきた。定められた釣り場でイワシを餌に、シンカー(重り)を使って釣り上げるムーチングという釣り方に従うのがルールだ。

「ムーチングは、日系人の編み出した上手な釣り方を見た人たちによって名付けられたのです。ムーチーとは人の物をねだるとの意味で、日系の釣り人が次々に鮭を釣り上げるのを見て、その餌をねだる者がおり、疑似餌ではなく、ねだって手にした餌を使っての手法で首尾良く釣りができたところから、この名が付いたと言われます」

戦後第1回となるサーモン・ダービーには172人の参加があったという。「日系人は強制収容から戻ったばかりでまだ釣りどころではない時期かとも思えますが、砂漠の中の収容所暮らしではとてもできないことでしたから、戦争が終わり、多くの人が鮭釣りを待ちかねていたのでしょうね」

1946年の再発足から70年を超え、今やワシントン州最長の歴史を誇る釣り同好会とされる。「再開してからこれまでの詳細な記録が残っています。ノートや新聞の切り抜き、写真などを積み重ねると高さ1メートル近くにもなる膨大な量です。そこで一念発起し、4年ほどかけてこれを1冊にまとめました」と田原さん。

『天狗過去帳』にある天狗の印判は、田原さんの母の手彫り

こうして2016年、シアトル日系人会発行として、約250ページの『天狗過去帳 Tengu-Tales Told by Fishermen & Women of the Tengu Club of Seattle』(英文)は世に出た。70年余りの間で、人は変わり、スポーツフィッシングをめぐる環境も変わり……と多くが移り変わった。50年を天狗クラブのメンバーとして過ごした田原さんだけに、その伝統と歴史への愛着は強い。歴史を語る言葉の端々にも、『天狗過去帳』の文章にも、その愛情がにじみ出る。

もちろん、エリオット湾の冷たい海風にさらされながら釣り糸を垂らす釣り人としても毎回、努力を続けた。その甲斐あって1995年と2006年の2度、チャンピオンとなっている。シーズン最後の天狗クラブ夕食会で受け取るチャンピオン楯は、さぞかしうれしいものであったに違いない。


氷川丸でシアトルへ

田原さんは1936年、東京・池袋の生まれ。だが、アメリカと無縁ではなかった。「父が警視庁に勤めていたため、私は東京生まれの東京育ちです。しかしハワイには叔母がおり、従兄が占領軍の一員として東京にやって来たことがあります。また、シアトルとロサンゼルスには父の長兄と次兄がいました」。都立北園高校を卒業した田原さんに、アメリカの大学で学ぶことを勧めたのはシアトルの伯父だった。

姉2人妹2人の中のひとり息子として育った。両親、祖母、姉妹と一緒に。後列左端が田原さん

「1955年9月に、氷川丸に乗って横浜港を発ちました」。2週間の船旅の後に着いたシアトルで、エジソン・テクニカル・スクール(現シアトル・セントラル・カレッジ)に通い、英語などを学び始めた田原さん。そこで出会ったのは、田原さんより2カ月早く氷川丸でシアトルに到着した女性、アンナさんだ。

ワシントン州で生まれたアンナさんは戦前、最後の引き揚げ便となった氷川丸で両親と共に日本に渡ったが、アメリカに残った姉を頼り、戦後にシアトルへ帰って来ていた。「氷川丸での到着が2カ月先輩というだけでなく、私より年上の姉さん女房で、これまでの苦労を共に乗り越えてくれました。本当にママ(アンナさん)のおかげだと私は常々言っているのです」

太平洋に面する漁港の町、ウエストポートで26.35パウンドの鮭を釣り上げた田原さん。2018年のウエストポート・フィッシング・ダービーで1位となり、賞金1万ドルを獲得した。これまでの最高記録はアラスカで釣った40パウンド。鮭釣りの醍醐味は、大きな鮭との力比べ、知恵比べにあると語る

真面目な人柄がそうさせるのだろう。人との出会いには恵まれた。田原さんが学業の傍ら、1957年から皿洗いとして働いたのは、パイオニアスクエアにあったサムズ・カフェ。その店主であったサム・キタノさんは、田原さんを釣りに誘い、一から鮭釣りの手ほどきをした。天狗クラブのダービーだけでなく、州外へも連れ立って釣りに出かけるほど。田原さんにとっては、釣りにとどまることのない「一生を通じてのメンター」という大事な出会いになった。

エジソンで2年間学んだ後、ワシントン大学に入学して化学を専攻した。アンナさんと結婚したのは3年生の時だ。人伝えで微生物学のヘレン・ホワイトリー教授から声がかかり、教授の研究室で働くことになった。「お父さんはロシア革命後に亡命した白系ロシア人で日本滞在経験があり、教授は私にも大変良くしてくれました」。そのまま30年間、ホワイトリー教授の研究室でリサーチ・テクノロジストとして勤務を続けた。

ワシントン大学退職後は、当時の宇和島屋会長であるトミオ・モリグチ(本誌発行人)の依頼を受け、シアトル・センターでの「US-ジャパン・フェア」開催を手伝い、それをきっかけに会長秘書役を10年以上務めた。宇和島屋シアトル店の現在地への移転やオレゴン州でのビーバートン店オープンなどにも関わった。この間に得たものは多い。「日米のいろんな方に会うことができました。また、コミュニティーのために、種々の団体役員として尽力するトミオの姿も見ました」。

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*本稿は、『Soy Source』(2020年4月9日)からの転載です。(写真:楠瀬明子、本人提供)

 

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