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歌舞伎アカデミー主宰者 大野メリーさん ー その1

シアトル、タコマ地域を拠点に日本舞踊や長唄三味線を指導する大野メリーさん

この秋から始まるNHK連続テレビ小説が、昭和・平成・令和にわたる祖母・母・娘3代のドラマ「カムカムエヴリバディ」と発表されました。「カムカムエヴリバディ」とは、終戦直後の日本を席捲したNHKのラジオ英語講座、通称「カムカム英語」オープニング曲のタイトルです。この英語講座を題材とした朝ドラ制作のニュースに、“カムカムおじさん”として親しまれた同番組講師、故平川唯一(ただいち)さんの家族は大喜び。唯一さんの次女で、シアトル、タコマ地域を拠点に日本舞踊や長唄三味線を指導する大野メリーさんに話を聞くと、日米間の歴史を背景に「カムカムエヴリバディ」シアトル3代記が浮かび上がりました。

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朝ドラ決定に沸く

1992年、勲五等双光旭日章を受章した際の唯一さんとメリーさん。「私が日本とアメリカを数カ月ごとに行き来していた頃です」

平川唯一さんの次男で東京・世田谷在住の洌(きよし)さんに、NHKから今年度後期朝ドラについての連絡が入ったのは昨年7月。吉報は直ちにアメリカにも知らされた。「兄からそのことを聞いて、エーッとびっくりしました。兄はそれほど事の大きさがわかっていない様子でしたが、連続テレビ小説は私もこちらで毎日見ていますからね。

友人も、素晴らしいニュースだと喜んでくれています。思えば波乱万丈の父の一生でしたから、ドラマとなるにもふさわしいでしょうね」とメリーさん。「東京では、今なお存命のカムカムクラブの英会話教室メンバーも大変喜んでくださっているようです。また、父の郷里である岡山でも」。岡山県高梁市の津川総合会館には、地元出身の“カムカムおじさん”にちなむドラマの発表を祝う横断幕が掲げられた。唯一さんの生家近くの公園は、木野山カムカム公園と名付けられている。

カムカムおじさんの誕生

カムカムおじさんこと唯一さんは1902年、岡山県津川村(現・高梁市)に農家の次男として生まれた。父・定二郎さんは、出稼ぎにアメリカに行き、“鉄道働き”をしていた。『北米百年桜』(伊藤一男著)などによれば当時、グレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道など内陸での保線作業に多くの人手が必要で、日本からは船でシアトルやポートランドに一度に何百人と送り込まれていた。山中の鉄道で働く者にとってシアトルは、しょうゆなどを取り寄せることのできる食料供給基地であり、休暇を取って出かけては栄養補給や買い物をする町だった。

「カムカム英語」として親しまれたNHKのラジオ英語講座を放送中の唯一さん

アメリカからは一度戻って来ただけで、それ以来長い間帰らない父親に、早く帰って来て欲しいと唯一さんが手紙を書くと、おまえたちも一度来てみるかと旅費が送られてきた。1918年、唯一さんは16歳で兄と共にアメリカに向かう。一緒に1年ほど鉄道の仕事をした後、父親は日本に戻ったが、せっかくの機会だからと兄弟はアメリカに残ることにした。

兄の隆一さんは自動車学校で自動車修理技術を学んだ後に日本に帰国。唯一さんは、最初はシアトル日本人町の商店で働いたものの、英語が話せずに接客に苦労。そこで、アメリカ人家庭にスクールボーイとして住み込んで、働きながら学校に通うことにした。タダイチでは呼びにくいと言われて、ジョーの名を選択。以後はジョー平川となって、幼い子どもたちに交じって小学校で学ぶことから始め、飛び級を重ねて3年後には8年生までを修了。ブロードウェイ・ハイスクール(現・シアトル・セントラル・カレッジ)、次いでワシントン大学に進んだ。

当初「発明家になろう」と物理を学び始めたが、1年後に方針を変更して演劇を専攻し卒業。1931年にロサンゼルスに移ると、東京出身のよねさんと出会い、結婚する。生まれた長男を抱えて1937年、一家は日本へと引き揚げた。その秋に得たのが、JOAK海外放送(現在のNHKラジオ国際放送)のアナウンサーの仕事だった。2名の募集に50人以上が応募するという難関。「父は運の良い人で、就職試験の朝に、その日の新聞に出ていた解説記事のひとつを英訳してみたところ、偶然それが試験の課題として出たというのです」とメリーさん。1945年8月には、国際部チーフアナウンサーとして、玉音放送を英訳し世界に向けて発信した。

その後いったんNHKを退職した唯一さんに、再度NHKから声がかかったのが、ラジオ英語講座の講師役。敗戦後の日本では、占領政策を実施するGHQ(連合国軍総司令部)の方針で、国内での英語普及が推し進められようとしていた。「終戦が昭和20年(1945年)の8月、私がその年11月に生まれ、翌年2月1日に英語講座が始まりました。私は赤ん坊の時からずっと、ラジオから流れる父の声を聞いて育ったわけです」

ゲストの少年少女たちに囲まれる唯一さん。手前の小さな女の子がメリーさん。「NHKスタジオにはよく遊びに行きました」

英語講座は、誰もが知っている「証城寺の狸囃子」のメロディーにのせて「カム・カム・エヴリバディ〜」と歌うテーマソングで始まり、たちまち人気番組となった。アメリカでいちから英語を学んだ自分の体験を元に、「言葉は、赤ちゃんになって覚えていくのがいちばん」「外国語は楽しく遊びながら学ばなくては」と、日常生活に題材を取った平易な英会話が全国に放送された。敗戦後の虚脱状態の日本に笑いと明るさを少しでも取り戻したいとの願いも込めたというプログラムは、子どもから80歳代の高齢者まで幅広い人々を引き付けた。

カムカム英語は、NHKでの5年間の放送の後には民放で続き、カムカムおじさんの明るい穏やかな声はほぼ10年、ラジオから流れ続けた。その間に寄せられたファンレターは50万通余り。いかに多くの人が放送を心待ちにして平日午後6時から15分間の放送に耳を傾けていたかがうかがわれる。

唯一さんが会長を務めていたローンテニスクラブで皇太子(現・上皇)ご夫妻と

その2>>

 

* 本稿は、シアトルの生活情報誌「Soy Source」(2021年3月13日掲載)からの転載です。

 

© 2021 Akiko Kusunose / Soy Source

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