ディスカバー・ニッケイ

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第32回 とうとう一度も帰国しなかった

1973年ごろ、助次が日本に充てて送った絵葉書、『当地の日の入り』と助次が書き添えている。

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。京都で天理教の活動をする義妹の生活を心配しながら見守っている。甘酸っぱくて苦みのあるフロリダのグレープフルーツのすばらしさを自慢。帰る帰るといいながら、これまで一度も日本に帰らなかった自分の人生を振り返っている。

* * * * *

〈自然を共に生活している〉

1972年5月19日

美さん(義妹)、御手紙ありがとう。家の事に就いてあんたの気持ちはよくわかるが、教会となると莫大な費用を要する。私にはそんな余裕のない事は既にご承知の事だ。あんたが引退されてから、ささやかな隠居所を建てて上げたいと思った。

いまのところ、これ以上何も出来ぬ。私は別に変りはない。自然を友に日を送っている。親しかった友を亡くし寂しい。玲さん(姪)。写真ありがとう。大勢な人だが、あんた達の他は誰なのか、解からない。


〈これが日本の常識か〉

1972年5月21日

玲さん、お手紙ありがとう。久し振りに長い便り、繰り返し、繰り返し読んだ。どうやら、幸福の神さんもあんたの味方らしい。あんた達はそう決めたのなら私に相談なんて他人行儀の要はない。宗教家、教育家は皆立派だが、物には両端があるように人間には表裏がある。表面は立派でも、裏面は鼻持ちのならん者もある。特に大酒のみで酒癖の悪い者、利己でケチで感謝の念が欠けた者、血筋の悪い者等、いずれ一つでもあれば真の幸福は望めない。

お母さんの気が変わって隠居よりは教会がよいという。無理もないがお金がない、物価の高い今、一寸した住宅一軒建てても容易でない。教会となると、何十倍、何百倍の莫大な費用が要る。寄付は余り望めぬという。本部からは一セントの補助もない。今の私は何する事も出来ぬ。

私の杉山植林は、夢として待つよりない。写真を見ると、お母さんも急に若やいだ。40代に見える。これではまだまだ隠居どころでない。明子(姪)の手がまだ痛むとか。何とか根治出来んのか。私の健康は別に変わりはない。よく眠る。昼でも夜でも眠るから何より楽だ。明子が送ってくれた種子、よく生えて立派に太っている。遠からず食べられる。南瓜は直ぐ生えたが、紫蘇は数本生えただけ。二、三週間経ったが、生えないので水もやらず、ほっておいたら急に生えだした。シソは何より好物。佃煮は熱いご飯に塗って食べるのが好きだ。

農園を相手の孤独な生活も多年の習慣でさほど苦にならぬ。ただ親しい友が亡くなるなど、何かにつけて寂しさを感じる。最近友人の息子二人が結婚した。一人は独逸人でメカニック、父の工場で働いている。一人は日本人で新宗教の伝道者だ。両人とも30代、大学を出て初婚の男。特に親しくしているわけではないが、祝福する手紙に金一封を添えて送った。独逸からは折り返し鄭重なお礼の手紙が来たが、日本から何の便りもなくなった。

(日本のある聖職者に請われてお金を送ったところ)金だけ取って知らん顔している。けしからん。身を聖職に置きながら一片の感謝の念もない。これが現代日本の常識か。私は怒り心頭に発した。書けば切りがない。これで止める。さようなら。


〈今帰っても誰も知っている人はいない〉 

1972年6月14日

玲さん、お手紙有難う。幹男(甥)から手紙が来た。遅延は時々ある。何も青筋立て怒るほどの事でない。私は年のせいか教養が足らぬ為か、兎も角も・・・済まなかった。

佐代子さんからも手紙が来た。見事な筆跡・・・さすが幹男が自慢するだけあって今どきの若い人には稀な人だ。初めての手紙だ。お母さんからも手紙が来た。家の事、政兵エ(助次の弟)の法事のことだけで幹男の事に就いては一言も触れて居ない。知らんのかも知れん。玲子の見合いはどうなった。知り合いの間柄、見合いはうまくいった事と思う。

こちらは約二週間近く、連日の降雨、低地は一面の水ばかり。球葱、トマト、水瓜等皆腐ってしまった。助かったのは青葱とパイナップルだけだ。南部フロリダはグレープフルーツの産地。質も量も世界一。スイートエンドジュレー。あまずっぱくて苦味のある加州やテキサス産の比ではない。日本へも沢山行く。

今はシーズンも終わりになって品薄、値も少し張る。直径5インチ位の上等品は一個25から30セント位。冬と春の出盛りには半値位だ。近くなら送って上げたいが、メールでは運賃倒れとなる。グレープフルーツによく似た夏ミカンはかなり寒い地方でもよく出来る。渡米前、滝馬(故郷・宮津市)の庭先に3本植えた。1本には数個、実がなっていたが味はよくなかった。

あんたも家を建てたら庭の日当たりのよいところに一、二本植えるとよい。三年目から実が採れる。五、六年もすると、喰いきれない程なる。


〈トラクターから落ちて大火傷〉 

先日久し振りに大怪我をした。あの腰高のトラクターから降りる際、足をすべらし、火のように焼けたマフラーに触れヤケドした。あいにくショーツをはいていたので、じかに触れたのだ。医者に行くほどの事でもないので、有りあわせの薬で手当てしたが、中々治らぬ。歩くと痛む。

一ヵ月前の賑わいはメモリアルデーだった。亡き人の霊を慰める、日本のお盆に当たる。親しい人が亡くなる。今度は自分の番かも知れぬ。あの世が身近に迫った感じがする。かねて買った墓地の上に立ち、何れかこの足元で自分は永久に眠るのだ。この土地を温かく感じながら斜陽を眺める事もある。

私は在米70年近いが、一度も帰国していない。友人は是非一度帰って来いという。今帰っても知った人は誰も居なくなったし、只一人、時々思い出すのは山田の糸井圭子さんだ。元郡農会技手・糸井福蔵さんの妻君で、滝馬で果樹園を経営して居た頃、色々お世話になった。

明るい親切な人だった。私より少し年上だった。健在なら90歳位と思う。面倒だろうが、あんた宮津に行った際に、訪ねてくれまいか。山田の駅前に住んでいた。雑誌と本を有難う。○○さんの本は何回よんでも飽きぬ。

書く事は切りがないが今日はこれで止める。暇がないのだ。さようなら。


〈逢いたいのはあんた達の外にない〉

1972年7月16日

玲さん、お手紙ありがとう。何時もながらお便り繰り返し、繰り返し読んだ。あちこち知った人は少なくないが、真に逢いたいと思う人たちはあんた達の外にない。老齢で孤独、是非一度は帰りたいと思いながらこうなったのです。足に火傷はほぼなおってきたが真っ赤な肉色が薄らいで行く。傷になるかも知れんが、幸い足だ。若い娘さんの顔だったら大変だ。

今日はサンデーだが、雨がないので青葱を植えることにした。長さ300尺の畦が3本で合計900尺。一尺に4本の割で植えてある。約二、三ヵ月のうちに約3倍になる。1本1セントの手取りとしても100弗以上になる。悪くない。虫もつかぬし、病害にもかからぬ。肥料さえやれば出来る。

青葱は店で売っている。ほかの野菜に比べると極少ない。一把五、六本(ペンシルサイズ)で小売15セントから20セントだ。少し高過ぎる。半値でも結構利益がある。青葱の白い部分は生食、葉はサラダなどにいれる。

見合いが不結果に終わったとか。全く意外だ。私の助言が・・・無理な注文をしたようには思わぬ。政兵エの法事・・・二ヵ月ばかり前に手紙を出したが返事がなかった。何も委しい事は知らんが、気の毒な人のように思われる。京都の初子さん(※助次の初恋の人)、岸和田の静香さん、高橋の弘子さん、皆過去の人となった。

遠ざかる人は疎んじる。親しかった友達も次々去って行く。自然の成り行きでやむを得ぬ。25弗チェックで送る。あんたが借りを支払った分で、残りが本代だ。


二伸

これはお母さん(義妹)へ

家をたてるための土地の選択、家の設計は十二分の注意を要する。この道に委しい信用のある人に依頼された方が安全と思う。急いでは成らぬ。お互い忙しいとご無沙汰勝ちになる。何も心配する事はないと明子(姪)へ伝えて下さい。

今は台風で、あちこち洪水や暴風で多くの死傷者が出ている。当地は平穏、海岸は賑わっている。ここ数年、無事に過ぎた天災は忘れた頃にやって来る。少しも油断もならぬ。まだ約三ヵ月もある。私は京都の夏は知らぬ。景色はよいが暑いと聞いている。如何。


〈あんたは悪くない、がんばれ〉

1972年8月

玲さん、また返事が遅れた。すまんと思う。書きかけても直ぐ嫌になる。気分が悪いのだ。体がだるく何もする気にもなれぬのだ。食欲もない。何を食べても不味い。お茶漬けだけで過ごす日が多い。右足と腰がまたひどく痛み出した。立つ事も歩くのも容易でない。

雨は止んだが酷い暑さだ。百度近くて風もないと目まいがする。温度に変わりはない。年のせいだ。気だけで何も出来なくなった。京都の土地は馬鹿値だ。荒地が坪五万円、ウソのような話だ。世界一値が高いといわれるこの辺の約10倍だ。

あんたは今後どうする気だ。つまり約束の目的だ。現状に甘んじて余生を宗教に捧げる気か、好配偶を得て再婚する気か。それとも鍛えた腕で一仕事するか。あんたはまだ若い。余生は長いがうかうかしていると、五年十年は直ぐ飛んでしまう。

何としても容易でない努力を要する。資本も要るが、一万弗までは都合出来る。私の遺産の分は・・・教会でないから全部一度に送れぬが、法律で年三千弗まで許されている。先の事は当てにならぬし私が死ぬまで待たなくてよい。考えて見てくれ。あわてず考えるのだ。決心がついたら知らせてくれ。

あんたの離婚の真相も解かった。○○さんの現状も知った。あんたは何も間違っていない。何を恥じて卑下するのだ。正々堂々胸を張って進むのだ。あんたは弱っている。感傷に陥っている。世評を気にして人の顔色ばかり気にしても何も出来ない。

自信を鍛えて強くなるのだ。神様一点張りも如何かと思う。丸呑みにしてはならぬ。随分得手勝手な事を書いた。おシャカ様への説教に過ぎぬが、自信を持って書いた。

明子が忙しくて十分寝る暇もないとこぼす。家族の者は如何しているのだ。昔から孫の守りは、ばあちゃんの役目だ。若い時、無理すると年を取ってからが大変だ。私がよい手本だ。おとなしい明子、何も言えんのだろう。注意してやってくれ。

こちらも肉類は高い。高過ぎて困っている。上等の牛肉1听1弗50セント以上。ビヤ(ビール)育ちの日本物は一听4、5ドルとの事だ。一番安いフライドチキンで一听30セント位だ。私は買わない。嫌いではないが、クックが面倒だから缶入りハムやスモークソーセージで間に合わす。健康には新鮮な野菜や果実に越した物はない。

(敬称略)

続く >>

 

© 2020 Ryusuke Kawai

家族 フロリダ州 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 森上助次 アメリカ合衆国 ヤマトコロニー(フロリダ州)
このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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