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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第28回 これまでの文通は数百回 

助次が姪に送った絵葉書から

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。アメリカ生活が長くなったせいか、これまで欲していた日本の書籍をあまり読まなくなったという。農作に失敗し持病がすぐれないことも多いようだ。しかし、農園づくりはあきらめていない。姪の再婚話に親身になって相談にのり、アドバイスをしている。

* * * * *

〈日本の炬燵を思い出す〉

1969年1月12日

玲さん(姪)、先日はお手紙有難う。久し振りの賀状と便り、意外でした。故国からの音信はほとんど途絶えただ一人の弟さえも忘れがちです。何年経っても生まれ故郷は恋しい。幹男(甥)の疎開は初耳でした。終戦既に20有余年、文通は数百回だが、あんたたちの内輪の事は知らぬことが多い。

この冬は稀な寒さで外仕事は休日が多い。雪は降らぬが時には降霜もあり、薄氷も張り、あまり寒いと日本の炬燵を思い出す。ホカホカ温かいので尻まで入って雑誌等を読んだ頃は楽しかった。

Xマスは気分がすぐれず腹までこわしていたので友人からの招待にも行けなかった。アメリカでは正月はほとんど祝はない。百姓は忙しい時なので皆働くが日系は皆、休んでお雑煮等を食べる。ワシントンの友人からの招待にも行けなかったが、友人が珍しい日本の食料品を送ってくれた。

日本の雑誌が沢山たまってきた。楽しみで待っていて、何より好きだった読本がどうした事か急に嫌になり、新聞の外はほとんど何も読まぬ。暇があれば眠るか、追想に耽る。色々昔の事を思い出す。幼い米治(弟)が家の側の石燈籠を登って行く。折角登ったが下るのが大変である。私はヒヤヒヤしながら見ていた。しばらくしてまた腹這いになり登っていく。

私のおじいさんは花が好きで色々なものを庭先に作っていた。幼い私は、根が出ただろうかと一本引き抜いて見る。またそっと植えて置く。間もなくして萎れる。おじいさんがおこって怒鳴りつける。あのころは楽しかった。今はなにもかも夢である。


〈巨額の損害を蒙る〉

1969年1月15日

玲子へ。先日明子(姪)へ手紙書いたとき、あんたにも書くつもりだったが、思わぬ事故続きになった。どうか今年はよりよい年であるようにと、色々と計画を立てていたが、新年より逆を打ち、巨額の損害を蒙る羽目になった。

寒害でパイナップルの大半を失い、野火事で木苺は全滅、二年前植えつけた約500本の新種のパイナップルは不結果で全部引き抜く始末。全部の損害約1万弗に達する。これを始めたとき、友人のある者は「お前は歳だ。止めた方がよかろう」と忠告した。

今はこの始末、天罰とでも言おう。しかしこれ位の事で中止など思いもよらぬ。目下恢復策で頭をひねっている。

去る3日の新聞で見ると今、日本では3万何十人が百歳以上で、そのうち女の人が約三分の一で最高が116歳で兵庫県の人だという。多分、丹波の山奥に住んでいる人だろう。ロシアの方はずっとずば抜けていて、160歳の男。ヒマラヤ山の近くに住んでいる。私は思った。私は80年近く生きながらえた。将来の有様を想像してみたが、見当がつかぬ。ただ、他の世界———もしあれば———自由に行き来できる事と思う。

昨日、思いがけなくワシントンの友人から小包が来た。開けて見たら色々珍しい日本食料品が入っていた。その中の茄子の辛し漬けは何よりの好物。晩には御飯をたいて、御馳走になった。デルレービーチの店にも日本食料品は少なくない。海産物の缶詰で白人向けだ。日本から直接取り寄せるよりこちらの方がずっと安い。元値は安いが運賃が高くつくのだ。

今私は日本の雑誌も新聞も読んでないが、何となく物足らぬ。ほとんど、日本字は書かなくなったのでろくに書けない。読みにくいだろうが我慢してくれ。そのうち上手になるかも知れぬ。さようなら。


〈10階、15階のアパートが次々建つ〉

1969年1月31日

美さん(義妹)お恵送の品、一昨日うけ取りました。毎日、少しずつ御馳走になっております。大抵の日本物は来て居りますが、こうした日本人向けの物は売られていません。昨今、日中は少し温かくなりましたが、夜はかなり冷えます。

私は相変わらず鼻水とクシャミに悩んでおりますが、一番困るのは夜、小便が近い事です。少なくとも四、五回で量は半ギャロン以上、余り水を飲まないのに出るのが不思議でなりません。

玲子から手紙が来ました。大分、元気付いたようで何よりです。過去は忘れて、また新たに始めるのです。当地は好景気で10階、15階のアパートが続々建っていきます。今はシーズンの最中、人間とカーの洪水で、足の弱い老人はうっかり外へも出られません。

今年は気候の不順の為、野菜類は不作で何もかも高値です。また人手不足なので何も作っておりません。大根一本ない始末です。ワシントンの友人が日本の雑誌を送って来ました。日本も景気がよい。生活程度も今はアメリカと近いと思われます。


〈60年前、人口300に満たぬ寒村だった〉

1969年5月17日

美さん、お手紙ありがとうございました。忙しいのと、別に書く事がないのでご無沙汰がちになったのです。当方、別に変わりありません。食って寝て、悔やんでみたり、悟ってみたり、同じことを繰り返しております。

去る15日は60年前、私が当地に着いた日でした。当時は人口300に満たぬ寒村。蚊と蠅の巣窟でした。幾度か倒れたり起きたり、今日に及びました。これ、みなこの国のお蔭です。

私は相変わらず郊外で孤独な生活をしております。私の運勢は長生きして喰うに困らぬが血縁にとぼしいというか。運命に従う外ない。さようなら。


〈最善を尽くし、後悔なし〉

1969年7月31日

美さん、明ちゃん、手紙ありがとう。多忙と不快の為、ろくに返事もせず済みません。別に変りはないですが、例の宿病の為、書く気になれんのです。毎年のことながらこの夏は歳のせいか、ずっと暑いようだ。百度(約38℃)近い炎熱、風のない日は朝と夕方だけ働いて日中は避けるようにしている。

今年も気候不順、人手不足、病気等で作物は不結果に終わった。しかし、最善を尽くし、何の後悔もない。

長生不死の薬が見つかれば素晴らしい。移住、ジャングルの開拓、思っただけでも胸が躍る。再生来世を信ぜぬ私にはこれに越したことはない。

今日、ドイツ系の友人が二人のドイツ青年を連れてきた。ともに二十歳過ぎ、この国の大学在学中だが、夏休みを利用してやって来た。風貌態度、少しの問題もない。英語も達者だ。

玲子にもご無沙汰、よろしくいって下さい。皆さん、お大切に。さようなら。


〈姪の再婚話の相談にのる〉

1969年8月17日

玲さん、お手紙ありがとう。繰り返し、繰り返し読んだ。あんたの気持ち、よく解った。腹蔵なき私の考えを述べる事にする。あんたは結婚生活にはこりごりした。現状のままで居たいが、母が再婚を勧める。これに逆らえば親不孝になりはしないか。

お母さんはあんたの為というより世間体を気にしているようだ。何も好まぬ事をする事はない。嫌ならはっきり言えばいい。あいまいな返事は誤解の元だ。

あんたには未知の人である。仲人の言葉を丸呑みしてはならぬ。どんな偉い人でも隠れた欠点がある。口先ばかりで誠意に欠けた人、お金はあってもケチな人。大酒のみで女に目のない人。いくらでもある。

せめて一ヶ年位、交際すればいくらか解る。私はなにも再婚を勧めていないわけではない。あんたはもっと強くならねばならぬ。人をあてにしてはならぬ。あてになるのは自分自身だ。これがざっと私のいつわらぬ意見である。

人生は短い。無駄に費やしてはならぬ。私は相変わらずです。手足の不自由に悩まされている。玲さんが近くに居たらと思うこともある。今、朝の2時半だ。昼寝した為か、眠れぬのでこの手紙書く事にした。

私のミドルネームは何もない。普通の手紙にはまず必要がないのだ。英語をしっかりやってなさい。必ず役に立つ時が来る。また雨が降り出した。この夏は雨が多くて困る。台風キヤンクルは時速150哩でフロリダ半島の西海岸、メキシコ湾を北進中だ。

8月17日朝、北米のおじより


〈英語をしっかり勉強すること〉

1969年11月12日

玲さん、長い手紙先だって受け取った。早速、ワシントンの友人にあんたの渡米について取調べを依頼した。返事が来た。留学・旅行は資格さえあれば入国は容易だが、労働者は厳禁されている。

唯一の方法は親戚の呼び寄せ——養子ではない——で申請。少し面倒だが入国は可能とのことだ。困るのは私の健康だ。少しもよくならない。半身あるいは全身不随になる恐れがあるとの事。今は転地より外ない。一生の思い出で始めた果樹園、中途で止めるのは忍びないが、健康には替えられない。

行けばアリゾナ州のフェニックス市だ。こんな訳であんたの渡米は当分、見合わせるより外ない。私が留守ではあんたは途方に暮れる。何はともあれ英語で話すのだ。読めても書けても話せねば役にたたぬ。悲観したり落胆してはならぬ。頑張るのだ。

38年前、私が胃潰瘍で苦しんでいた時、米治は親不孝のたたりだと言った。切開手術をうけて全治したが、今、生きていたら、何というだろうか。

去る5日は私の誕生日だった。忘れたいのだが、友人等がハガキやプレゼントをくれたり、デナ—に招待されるので忘れる機会がない。日本はどうか知らぬが、この国では皆お祝いする。

希有の長雨はようやく止んだが、急に寒くなり夜間はヒーターが欲しい位だ。北からの避寒客がドンドン来だした。遠からず、カーと人間でゴッタ返す事だ。

先年掘った、湖水を見下ろす丘に住宅を建てる予定であったが、病気の為見合わせする事にした。

(敬称略)

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© 2020 Ryusuke Kawai

florida issei letters Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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