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インタビュー: シンガーソングライター エミ・マイヤーさん — その1

シンガーソングライターのエミ・マイヤーさんは、京都生まれ、シアトル育ち。デビュー10周年を迎えた今年(2019年)は、7月にシアトルで約7年ぶりとなる凱旋公演を行いました。妊娠、出産を経てカムバックしたエミさんに、これまでのこと、これからのことをじっくり語ってもらいました。

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シアトルで過ごした日々

エミさんが生まれたのは、ワシントン大学大学院で美術史研究をしていた母親が、1年だけのフルブライト奨学金プログラムで京都に滞在していた時のことだ。「だから、シアトルには本当に生まれてすぐ帰って来たんです。最初はバラードに住んでいて、バラード・ロックスがすごく好きだったのを覚えています。散歩をして、公園で土遊びをしたり草で遊んだり。そんなバラードでの自然との思い出が、シアトルでの最初の記憶ですね」

シアトル・アジア美術館に勤める父親の影響で、絵を描くことも好きだったというエミさん。家族3人での旅行ではいつも、父親と同じテーマで一緒に絵を描いていた。「クリスマスや正月は日本で過ごし、スペインやイタリアにも行きました。10歳頃の私の絵って最高なんですよ。自由で、描き方とか全然気にしてない。子どもってすごいなあって感心します。シアトルでは、いろんなアート・クラスを受講しました。完全に趣味だからプレッシャーもなく、思いのまま楽しんでいました」

アーティストの両親の影響で、子供のころから絵を描くことが好きだった

ピアノを習い始めたのは6歳の時。ベルビューでレッスンを受けていた。「先生はもう亡くなってしまったんですが、私にとってはおばあちゃんみたいな方。こうしなさいとか、ああしなさいとかではなく、自分らしさを引き出してくれる先生でした。大好きなのはドビュッシー。曲がすごくカラフルなんです。夢中になって弾いていました」

︎現地校、補習校に通いながら、シアトル生活を満喫する6歳の頃

平日は現地校に行き、土曜日だけシアトル日本語補習学校に通っていた。エミさんは、現地校での自分と補習校での自分では、性格が違うと感じていたと告白する。「補習校にはハーフやミックスの仲間がいたので、あまり緊張することもなく、社交的に振る舞えたんです。だけど現地校では、ほかの子たちがすごく強くて、私はシャイになっていた。誰とでも仲良くはできても、本当の仲間っていうのがいなかったように思います」

自分の居場所がよくわからないまま、ずっと「私ってふたりいるのかな」と、違和感を持ち続けていたエミさん。その「ふたりの自分」を統一する役目を果たしたのがピアノだった。ピアノを弾く間は、どんな人にならなきゃいけないのか、何を言いたいのか、そういう問題が全部消えて、ピアノに集中できた。また、そのパフォーマンスは、現地校でも補習校でも評判となる。

「ピアノがあれば、自分をカッコ良く見せるとか、もっとアウトゴーイングにならなきゃとか考えなくても、みんなに受け入れてもらえる。こういう風に人と触れ合えるんだって。それが、私の音楽との関係でした。ピアノの前に座っていれば、自分の居場所があると感じられたんです」。エミさんは音楽を通して、自身のアイデンティティーを見出してきた。「日本人なのか、アメリカ人なのか、白人なのか、アジアン・アメリカンなのか、それとも移民なのか。そういう部分ではなく、ミュージシャンとして、アイデンティティーを確立してきたように思います」

ピアノを弾き始めた5歳当時のエミさん


大切な人たちとの出会い

「自分がいちばん落ち着くのは、ミュージシャンの仲間に囲まれている時。音楽の話をしながら絆を深めていきます」。実家のピアノはスタインウェイで、幼い頃に初めて触れた恩師のピアノと同じ。子どもの頃からずっとなじんできた音だ。生で弾く時は特に、スタインウェイに手が伸びる。「先生のことを思い出すこともあります」

初めはアップライトピアノだったが、「真剣にピアノをやるならグランドピアノを」という話になった時、たまたま近所に住む男性から、弾かないまま家に置いてあるというピアノを譲ってもらえることに。「高価なものですから、親にはきっと負担だったと思います。ピアノに夢中になっている娘の才能を信じ、成長をサポートしたい、そう思ってくれたんだと。本当にありがたいです」︎

︎お気に入りのぬいぐるみと共に

子どもの頃から、ジャズのトランペット奏者を父に持つ幼なじみから、ジャズのカセットテープをいっぱいもらっていた。「セロニアス・モンクとか、マイルス・デイビスとか。ずっと聴いてなくて溜まる一方だったんですけど、中学生の時、友人からジャズバンドに誘われて、ようやくテープを聴き始めました。それまで全然興味がなかったのに、気に入ったものなんかはすごくハマってしまって、繰り返し聴きました。それで、幼なじみのお父さんに、ジャズについていろいろ教えてもらうようになりました」。それからは高校卒業まで毎年、ポートタウンゼンドで行われるジャズのワークショップ・キャンプに参加した。7月のシアトル公演で一緒にステージに立っていたバンドメンバーも今、そのキャンプで教えているそう。

パイクプレイス・マーケット内のイタリアン・レストラン、ピンクドアなどで、ジャズやクラシックのピアノ演奏をするアルバイトを始めたエミさん。曲も書き始め、アルバイト中にちょこちょこ自分の曲を混ぜることもあった。「レストランのBGMなんて、誰もあまり聴いてないですしね(笑)」。そして、歌い始めて1年くらいの頃、大学でロサンゼルスに移ったエミさんの元に、補習校の幼なじみのお母さんから連絡が入る。「今度、こういうコンテストがシアトルであるんだけど、帰って来て出てみない?」と勧めてくれたのが、シアトル—神戸ジャズ・ボーカリスト・コンペティションだった。「そのお母さんは、本当に初期の、まだボロの機材を使っていたような頃のライブから来てくれていた方で。それでダメ元で出てみました」。ここでの優勝が、シンガーになるきっかけになった。エミさんが18歳の時のことだ。

また、大学時代に出会った親友は、ロサンゼルス育ちで音楽業界に詳しかった。その親友に、大学の寮で弾き語りの曲を聴いてもらったことがある。自分で作った曲だと言い出せなかったエミさんは、「友だちの曲」とごまかしたが、その親友に「エミが書いた曲でしょう?」と指摘されてしまう。「お見通しでした(笑)。ほかの人の前でも歌うべきって、背中を押してくれたんです。せっかく作ったものを独り占めにするより、人の前で聴いてもらうのがアーティストだって」。その親友は早速、エミさんのためにスタジオを予約してくれた。そこで、4曲だけのEP盤を自主制作。デビュー作の「キュリアス・クリーチャー」の前の話で、まだ世に出たことはない。「全部が手作り。『マグノリアス』というCDです。父が育ったニュージャージーの家では、窓の外にマグノリアの木が見えました。その木をイメージした曲。シアトル育ちのせいか、緑や自然が目に入ってくるんです。実家のピアノも窓に囲まれていました。だから、歌いながら見たり感じたりしていた木や枝、葉、風など、植物を歌うことが得意なのかも」

人との出会いが人生でいちばん大事と語るエミさん。「別の新しい世界への扉。出会いによって道が決まり、人を通して今まで知らなかった世界に招かれる。自分にとって大事な人が世界をシェアしてくれて、自分の力ではできないことができる、わからなかったことがわかる、嫌いと思ったことが好きになる。幼なじみのお父さんやお母さん、大学時代の友人、その人たちに出会わなかったら、今の私はいない。人との出会いは、今もとても大事です」

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* 本稿は、シアトル生活情報誌「Soy Source」(2019年12月11日)からの転載です。

 

© 2020 Hitomi Kato / Soy Source / The North American Post

Emi Meyer identity music pianist singer song writer