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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その1

正義貫いた勇気ある行動

「彼らを攻撃するなら、まず私を攻撃しなさい」

1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本人の血を引く日系住民は敵性外国人とみなされ、差別と偏見の目にさいなまれた。多くの人が彼らに敵意を向ける中、自らを危険にさらしてまでも、迫害に耐え忍ぶ日系住民を擁護し立ち上がった人々がいた。

当時のコロラド州知事ラルフ・ローレンス・カー氏は、街中が狂気にみち溢れる中、州民に対し演説の中でこの冒頭の言葉を述べ、日系住民への差別を直ちに止めるよう呼び掛けたのだった。

一方、カリフォルニア州では、強制収容所に送られた日系住民の家や農園を終戦まで守り続けた非日系米国人たちの姿があった。彼らは非難や中傷を受けても、そして時に銃口を向けられても、日系住民が収容所から戻ってくるまで彼らの家や土地を守りぬいたのだった。

大統領選を控える2020年。今年はカー氏の没後70周年の年でもある。強硬な移民政策が推し進められる今、人種による偏見をものともせず信念を貫いたカー氏を側で見ていた孫の証言、さらに強制収容を体験した歴史の証人たちの声とともに、正義を通した勇気ある人々の貢献をここに取り上げたいと思う。

彼らのことを私たちの記憶にとどめ、いつまでも忘れないために、差別の代わりに「正義」と「友情」をささげた人々を紹介したい。

* * * * *

「友情の手」差し伸べた人: ラルフ・ローレンス・カー

日米開戦後の1942年2月19日、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」に署名し、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域に住むおよそ12万人の日系住民に強制退去命令を発令した。

国家の安全保障の脅威になるとの理由から、日系住民は敵性外国人とみなされ、住んでいた場所から立ち退きを強いられた。アメリカで生まれ、市民権を持つ日系2世や3世であっても、日本人の血を引くという理由で差別の対象となったのだ。

日系住民のうち約4万5千人が日本で生まれた日本人の1世たち(当時1世は市民権を取得することができなかった)。残り7万5千人近くは米国で生まれ米国籍を保持するアメリカ市民だった。
 強制退去命令を受け西海岸から退去した日系住民には受け入れ先がなかった。当時のワイオミング州のネルズ・スミス知事は公然と「ジャップ」と言い放ち、アイダホ州の司法長官も自分たちの州に日系住民が押し寄せてくることに反対する声明を発表した。

日系住民を擁護したコロラド州のラルフ・ローレンス・カー元知事(キット・リンチさん提供)

しかし当時コロラド州知事だったカー氏だけは違った。彼はアメリカ国民を差別することは合衆国憲法に違反する行為であるという信条から、コロラド州は日系住民を受け入れ歓迎すると発表し、迫害に苦しむ日系住民に救いの手を差し伸べたのだった。

そして非人道的かつ合衆国憲法に違反するという観点から強制収容には真っ向から反対した。

日系アメリカ人市民同盟(JACL)の機関紙「パシフィック・シチズン」の1942年1月号には、カー氏自らJACLに送った声明が掲載されている。「人の魂を試す時」と題した文の中でカー氏はこう述べている。

「アメリカは4大陸から来た人種も国籍も違う人々から成り立っている。まさに人種のるつぼである。そもそもアメリカにたどり着いた時、われわれは思い出や親戚以外は故郷に残し、新たな忠誠心のもとアメリカ人として生まれ変わった。日本人の両親のもとアメリカで生まれたアメリカ市民には、われわれの手本となってくれることを期待する。しかし、この国に生まれるという幸運に恵まれなかった人も、われわれと同じように真のアメリカ人になってくれることに疑いの余地はなく、われわれは彼らにも友情の手を差し伸べる」

どの州も日系住民の受け入れを拒否する中、受け入れを表明したのはコロラド州のカー氏ただひとりだった。


自らの政治生命を投げ打ってでも

しかし、カー氏の決断は州民から大きな反発を呼ぶ。日系住民の受け入れに反対する州民が暴徒と化して集まったのだ。しかし、そこでカー氏は怒り狂う州民を前にこう演説した。

「日系住民もわれわれが守られている同じ憲法によって守られており、ほかの市民と同様の権利を持っている」。そしてこの後、日系史に残る最も勇気ある言葉を続ける。

「もし彼らを攻撃するのなら、まず私を攻撃しなさい。私は小さな町で生まれ育ち、そこで人種的憎悪がいかに恥すべき、そして不名誉なものであるかを知り軽蔑するようになった。なぜならそれはあなたの、あなたの、あなたの幸せを脅かすものであるから」と一人一人を指さして言ったのだ。

カー氏は1887年、コロラド州の小さな金鉱町ロジータで生まれた。コロラド大学の法学部を卒業し、弁護士として働く一方、新聞社も経営し編集者としても働いた。

1929年にコロラド州連邦地方検事に就任。39年にコロラド州知事(共和党)に就任し、43年まで2期4年務めた。副大統領有力候補と称されたこともあった。

しかし、42年11月に行われた連邦上院議員選挙にエドウィン・ジョンソン前知事(民主党)にわずか約4千票の僅差で敗れた。一連の日本人擁護の姿勢が影響し、政治生命を絶たれたとも言われた。

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* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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