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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第4回 子供達は日本へ 

蒲井で與右衛門の父、甚蔵と子供達(1921年頃と推測)

前回は與右衛門の結婚後のシアトルでの家族と夫婦共稼ぎの理髪店の様子を紹介した。今回は、仕事の邪魔になると日本へ連れて帰られた與右衛門の子供達の蒲井での生活や與の再渡航についてお伝えしたい。


家族で日本帰国

1920年9月、與右衛門は家族全員で日本へ帰国した。帰国の目的は、子供達が理髪業の仕事の邪魔になるので、蒲井に残る與右衛門の両親に預けることであった。シアトルで生まれた子供達は、日本のことは何も知らなかった。当時の子供達の年齢は與6歳、長女4歳、次女2歳。長女で、現在102歳になる叔母が、後に與右衛門の手帳の空欄に書き残していた。

「私は1916年9月20日シアトルで生まれ、日本行き満4才1920年9月21日に行く」

叔母は、帰国時の心境を、「親は子供よりお金もうけの方が大事、両親は金の亡者だった」と語っていた。

ポートランド市が1920年9月17日付で発行した與右衛門夫婦の渡航許可書(Sailing Permit)が残されている。帰国前の一時期、與右衛門一家は弟達と一緒にポートランドで暮らしていた。渡航日は9月20日と記載されている。

1920年、渡航許可書(Sailing Permit)

家族全員でシアトルから船に乗り、2週間かかり一路日本へ向かった。子供達3人は、まだ見たこともない両親の祖国は一体どんな場所なのかと不安に思った。

神戸から柳井まで汽車に乗り、柳井からは船で蒲井まで行く長旅だった。『上関町史』によると、この当時、柳井から長島の蒲井などの村々を経由して、隣の島、祝島(いわいしま)までの定期船、「運輸丸」が就航していた。

蒲井では、親戚と村中の人達が海岸に出て、この與右衛門一家を出迎えた。「運輸丸」がくれば、とにかく海岸へ出て、船から降りてくる人を暖かく迎えるのが蒲井の人たちの習慣だった。與右衛門一家がアメリカから帰ってくると事前に知らせがあったので、島の陰から船が見えると、船の汽笛に答えるように村人全員が歓声を上げた。船が海岸近くまで来ると、海岸から小舟を漕いで連絡船に横づけし、乗客を乗せて陸地まで運んだ。子供達は船頭さんに抱きかかえられて、おそるおそる小舟に乗り移った。この光景は、『ジム・吉田の二つの祖国』の中で記されている1941年4月にジム・吉田が父、龍之輔の遺骨をもって氷川丸に乗り帰国し、蒲井を訪れたときの光景と同じであった。


子供達の蒲井での生活

子供達は、初めての日本で、そして蒲井での田舎生活に驚きの連続だった。衣服は、これまで慣れていた洋服ではなく、何やら妙な和服を着せられた。食事も、パン食から米食に。蒲井には新鮮な魚はあったが、肉料理は全くなかった。小さい子供には、魚は骨ばかりで食べづらかった。寝床も、ベッドではなく畳の上。トイレは水洗ではなく「くみ取り式」だったし、鉄窯の風呂も子供達には怖かった。当時のシアトルと蒲井の生活様式はまるで違い、生活レベルは格段の差があった。子供達にとって、すべての景色が珍しい景色だった。

一方で、與右衛門の父である甚蔵は、孫3人が帰ってきたと大喜びであった。子供達を蒲井のあちこちへ連れていったが、子供達はなかなか甚蔵になつかなかった。與右衛門の母親のサヱは体があまり丈夫ではなかったので、子供達の面倒を見ることは、ほとんどできなかった。

親の愛情が一番欲しい時期に両親が近くにいないということは、特に幼い二人の姉妹にとっては、とてつもなく寂しいことだった。この二人の親代わりに、與右衛門の一番下の妹が、親代わりとして二人をかわいがった。與右衛門の兄弟姉妹や蒲井の親戚の人たち、そして村人達も、皆が子供達をかわいがってくれた。村の人は、血縁がなくても皆が親戚同然であった。蒲井の人は、人情の厚い人ばかりだったのだ。

次女の叔母は、「私はアメリカで生まれたが、小さかったのでアメリカのことはほとんど覚えていない。蒲井では與右衛門の一番下の妹の叔母が、よく私の面倒を見てくれた。親が近くにいなかったので、親の愛情を感じることがなかった。そんなこともあって、娘時期には少し難しい子だった」と、明るく笑いながらよく思い出を話してくれた。

與はやんちゃざかりで、家の鶏をわざと外に出したり、悪いことばかりしていたという。與は地元の小学校へ通った。同級生が蒲井に数人いたが、みんな畑か海しか知らず、蒲井から外に行ったことすらない同級生ばかりだった。與はアメリカ帰りということで別格視された。日本語はシアトルで両親と話していたので、生活に必要な日本語は問題なかった。しかし、日本語を書くことはほとんど経験がなかったので、相当苦労したようだった。英語は堪能だったが、蒲井ではあまり使うことはなかった。時たま、與が英語を口にすると、廻りの人は與の流暢な英語に驚いた。

與右衛門はしばらく蒲井に滞在し、別れを惜しまれながら、翌年1921年3月22日にアフリカ丸に乗り、4月7日に単身横浜からシアトルへ戻った。この再渡航時のアフリカ丸での渡航名簿とパスポートが残されていた。このパスポートには「養豚業ノ為ノ再北米合衆国ヘ」とあり、與右衛門の自署のサインが書かれていた。與右衛門は弟達がやっている養豚業も手伝っていた。

パスポートの裏面には與右衛門の写真が添付され、アメリカの入国許可が英語で書かれている。

與右衛門(36歳)の再渡航パスポート(裏)(1921年3月)


與の再渡航

その後、子供達が蒲井で暮らしている最中の1923年9月に、関東大震災が起こった。関東一円が廃墟と化し、日本の先行きがあやしくなるような大惨事だった。與右衛門は、長男の與をこのまま日本においてはだめになる、與だけはアメリカに呼んでアメリカで教育させようと考えた。與右衛門の妻アキは、與をシアトルへ呼び戻すため、1924年4月に一時帰国。與はアキと一緒に同年5月にシアトルへ向かった。

その頃、アメリカでの排日運動はピークを迎え、1924年5月、遂に「排日移民法」が制定された。この法案は、日米関係を破局に向かわせる要因の一つとして極めて重大なもので、施行されると、全ての日本からのアメリカ移民が禁止され、妻子や親でさえ呼び寄せができなくなる。シアトルの日系人は、この法案が近いうちに施行されると聞き、慌てて日本の家族を呼び寄せた。與右衛門の様に日本の家族に預けていた子どもを呼び寄せる者も多かったし、独身者にとっては花嫁を迎える最後の機会とあって、「排日移民法」施行前の1924年7月には、最後の渡米者が多くシアトルへ上陸した。與右衛門が長男、與をシアトルへ呼び寄せたのはこのような状況下だった。

與の着物姿の写真が貼られた、この渡航時のパスポートが残されていた。

與(9歳)の再渡航パスポートとそれに添付された與の写真(1924年5月)

「母ト同伴再ビ北米合衆国ヘ」と記載され、與の自署のサインが書かれている。アキ30歳、與9歳のマニラ丸の渡航名簿も残されていた。この時、アキの実家の宮崎夫妻も一緒だった。親戚同士で一緒にシアトルへ向かうことは、アキにとって非常に心強いものだったようだ。

しかし、女の子2人は蒲井に残され、そのまま蒲井での生活を強いられた。女の子2人は母親のアキと別れる時は、悲しくて泣き出した。アキのように結婚して働くためにアメリカへ行くことはあっても、教育のために二人の娘がアメリカへいくということは難しい時代だった。

與右衛門はアキと與との3人暮らしとなり、シアトルでの新しい生活を始めることとなった。與右衛門には、理髪業の更なる発展と拡大という大きな野望と同時に、與のアメリカでの教育という大きな二つの課題があった。

参考文献:

『北米年鑑』、北米時事社、1928年
竹内幸次郎、『米国西北部日本移民史』、大北日報社、1929年
簑原俊洋、『排日移民法と日米関係』、岩波書店、2002年

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。日本語版は、2019年8月23日に『北米報知』に掲載されました。

 

© 2019 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです