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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第3回 結婚と家族

與右衛門のシアトルでの独身時代を紹介した前回に続き、今回は與右衛門の結婚と結婚後の理髪店、そしてシアトルで誕生した子供たちについてお伝えしたい。

與右衛門の結婚と家族生活

1900年に入ったころからアメリカでは働きすぎる日本人に対して排日運動が激しくなり、日本政府はこれを緩和するため1908年に日米紳士協約を締結した。以後、労働者は日本へ自由に行き来できなくなったため、「錦衣帰郷(きんいききょう)」を夢みた短期的な出稼ぎから、その夢をあきらめてアメリカに定住せざるをえなくなっていった。当時の渡米者のほとんどは独身男性であり、生活が安定してくると日本に帰り配偶者を求めていた。しかし、日本への一時帰国が難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。

與右衛門も、シアトルでの生活が安定していき、結婚したいと思うようになった。蒲井から何枚か写真が届いた。與右衛門は一枚の写真を見て、即座に「これがいい!」と言ったそうだ。写真の女性は同じ蒲井出身の宮崎アキだった。アキは5人姉妹の長女で、子供の頃は妹たちの子守りをしていた。アキの兄も、シアトルに来ていた。写真結婚は、写真と本物がえらく違うなど多くのトラブルがあった。しかし、與右衛門の場合、同じ蒲井出身であること、アキの兄をよく知っていることが安心材料となったようだ。こうして與右衛門は1911年8月に写真結婚により宮崎アキと結婚した。與右衛門27歳、アキ18歳の時である。

與右衛門とアキの結婚証明書(1911年8月)

結婚証明書の「C. Ito」のサインは、與右衛門が理髪店を始めるにあたり世話をしてくれた伊東忠三郎のものだ。伊東は仲人も務めた。

與右衛門はこれまで一人でのアメリカ生活だったが、妻を迎えて精神的に楽になったことだろう。1913年には、弟も蒲井からシアトルへ呼んだ。弟は密入国であったことが『上関町史』の中に書かれている。與右衛門は弟が乗った船がシアトル港へ近づくと、港近くの海岸で待ち構えた。弟は小舟に乗りこっそり上陸したという。もう一人の弟もその後にシアトルへ呼び寄せたが、同じく密入国だった。

與右衛門の家族写真(1916年頃と推定)

1914年9月、筆者の父である與右衛門の長男、與(あたえ)が生まれた。在シアトル帝国領事館、高橋清一領事から日本の外務大臣加藤高明宛へ出生届が出されていた。アメリカへも同じく出生届を提出し、與は二重国籍を持つ、日系アメリカ人となった。與はアメリカ人としての名前はジョン・シンマス(John Shinmasu)だった。1916年には、長女(現在102歳の筆者の叔母)が、1918年に次女が誕生して、一家五人暮らしとなった。

與右衛門一家は、日本人町の中にある、蒲井周辺出身の人が経営していたニューセントラルホテルの一室を借りて暮らしていた。当時、シアトルに住む日本人の多くはホテルに住んでいた。前回に紹介した與右衛門の理髪業のパートナーだった吉田龍之輔一家も、ホテル暮らしであったことが『ジム・吉田の二つの祖国』に書かれている。

叔母は、ホテル生活の様子を次のように語ってくれた。「與右衛門の弟二人は密入国であったため、日頃はシアトル郊外で養豚業を行い、身を隠していた。見つかると日本へ返される心配があった。時々、弟二人は夜にこっそり海を泳いで家族が住むホテルまでやってきて、濡れた衣服を乾かしていた。養豚場の豚をさばいて豚料理を家族で食べることもあった」。與右衛門にとっては、狭いホテルの部屋ではあったが、家族、兄弟が一堂に集まり一番心の休まるひと時だった。


夫婦共稼ぎの理髪業

與右衛門の理髪店は、ニューセントラル・ホテルから徒歩15分ほどの、ワシントン街163にあった。ホテルと理髪店との位置関係は、伊藤一男『北米百年桜』にある日本人町の詳細地図から確認できた。

シアトル市ワシントン街163にあった理髪店の前で次女と(1920年頃)

アキはシアトルへ来ると理髪師となるトレーニングをさっそく受け、持ち前の器用さで、すぐに一流の理髪師になることができた。與右衛門とアキの夫婦二人の理髪店経営が始まった。

前回紹介したように、シアトルの日本人理髪店のお客の多くは日本人ではなく白人層であった。叔母は、理髪店の様子を次のように語ってくれた。「理髪店は地下にあったが、照明が明るかった。一日に十人以上の白人の常連客が毎日髭剃りにきてくれた。英語は全くできなかったが、店は繁盛した。両親は朝早くから夜遅くまで猛烈に働いていた。両親の働きぶりはすごかった」

白人社会の生活習慣として、毎日の髭剃りは必ず理髪店に行く習慣があった。理髪料金は散髪代金、顔剃(かおそり)代金、頸剃(くびそり)代金の三つに分かれており、1916年においては、散髪が25セント、顔剃が10セント、頸剃が5セントだったと文献に記述される。多くの白人層を引き付けるのは、アキの柔らかい手と器用な手さばきでの髭剃り。男性が髭剃りを行う白人経営の理髪店に比べて、夫婦共働きの日本人理髪店ならではのサービスは心地よく、繁盛につながったのだろうと思われる。

日本人理髪店は白人経営の理髪店に比べると、資本が少ないために設備面ではコンパクトで白人理髪店に及ばなかった。そのため、上流階級の白人客はこなかったようだ。しかし、中流階級の白人と日本人全部を顧客ターゲットに適当な場所を選んで開業すれば、そこそこ稼げる。理髪店は、日本人にとって非常によいビジネスであったのだ。與右衛門は、白人が経営するような豪華な理髪店を自分も将来持ちたいと夢みるようになった。


與右衛門の一時帰国

1918年、與右衛門は一時帰国した。與右衛門が蒲井を出てから14年ぶりの帰国だった。あの着の身着のままの姿で蒲井を出ていった與右衛門がスーツにネクタイ姿で帰ってきた。父の甚蔵は、與右衛門が立派になった姿を見て涙を流して喜んだという。與右衛門は家族の安泰を見届けた後、村中の見送りを受けてシアトルへ戻っていった。

この時の再渡航手続きの書類が残されている。書類は與右衛門の日本の戸籍状況、アメリカでの住所、職業等が詳細に記載され、原本は英文で日本語の訳文が貼付されている。

與右衛門再渡航申告書(1918年)

「職業 理髪業、出航予定日 1918年11月29日横浜港、船名 加茂丸」とある。この書類の最後にアメリカ側の身元保証人が、前回で詳しく紹介した伊東忠三郎になっている。與右衛門はシアトル日本人社会のリーダーである伊東と深い関係があったことが伺える。伊東は1921年から約3年間、北米日本人会の会長職にあった。與右衛門の仕事や生活は伊東に大きく支えられていた。與右衛門はシアトルでの生活の基盤ができあがっていた。

與右衛門はシアトルへ戻り、理髪店は夫婦共稼ぎでますます繁盛していった。しかし、一つ問題がおこった。子供達三人が、理髪店の廻りをうろうろ遊びまわり、可愛いさの反面、仕事の邪魔になると感じるようになった。アキは與右衛門に子供達をどうしようかと相談した。そして子供達を日本に連れて帰り、蒲井の両親に預けようと與右衛門は決心した。


参考文献:

吉村大二郎、『渡米盛業の手引』、岡島書店、1903年
在米日本人会事蹟保存部編、『在米日本人史』、在米日本人会、1940年
伊藤一男、『北米百年桜』、日貿出版、1969年

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。日本語版は、2019年8月1日に『北米報知』に掲載されました。

 

© 2019 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです