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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第19回 消えた帰国の夢

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1961年5月以降のこと。義妹一家のために家を建ててあげたいといって調べるが、日本の地価の高さに驚き、結局それは不可能だとあきらめる。同時に、日本に帰るという計画も消えたと伝える。

* * * * *

〈故郷の新聞を送ってくれ〉

1961年5月4日

美さん(義妹)、永い間休刊して居た宮津の北近畿新聞が1月復刊したとの事です。この次、宮津へお行きになった節、新聞社(在前町)に立ち寄って毎号直接にこちらへ送ってくれるようアレンジして下さい。1.2.3.4のバックエディーションもあれば一纏めにして送って頂きたいです。

ともかく、包は丈夫にしてくれるように。でないと途中で破れて不着になります。代金は以前送ったのがまだかなり残って居る筈ですが、今度もまだ新経費なら其れは駄目でしょうからあんた、取敢えず払って下さい。御面倒でしょうが、如何か、お願いします。

新聞代は6ヶ月分で沢山です。夏になると、あれ程呪った冬が恋くなり、人間ほど得手勝手な者はありません。先日、久しぶりに故郷の夢を見ました。滝馬の家の側の石燈籠の階段を米治と歩く夢です。あの燈籠はまだあるでしょうか。

1961年5月10日

美さん、お手紙と種子、ありがとう御座いました。種子は、今は暑過ぎるので蒔かず、五百哩北のジョージア州の友人に送り秋に蒔いてもらう事にします。

美さん、年取って一人で居ると、モロモロの気持ちで心変わりがするのです。全く子供のままです。日本から帰って来た老一世達が申し合わせたように日本を非難します。

曰く、日本の者は不親切極まる。寄付でもしないと見向きもしない。土地がべラ棒に高くて家を建てる事も出来ぬと悪口、さんざんです。それは事実かも知れぬが、それは言う方が無理解すぎる。永い間、喰うや喰はずで居て、人の事等かまって居られなかった。

半世紀の長い間、故郷の為になにひとつしなかった者が、急に帰って来てお客さんあつかいされようとしても虫が良すぎます。

日本では土地がない。値が高いのは当たり前だ。余り金のない老人組はアメリカに居るに限る。私も京都あたりの地価の高いのにはびっくりしました。マイアミの目抜き場所以上です。私も秋頃行きますが、他の者は逃げ帰るかもしれません。

あんたの家を建てて上げたいと思い、取り調べた。京都郊外の高級住宅地帯で125坪の屋敷に、25坪位のモーダンな住宅だと約4万弗です。もっとも家具付でスイミングプールもありカーも備えて居りますが、一寸手が出そうもありません。

日本では「車」なんてまだ封建時代の名称を付けて居る。何でアメリカ式にカーと呼ばないのか、不審に思われます。カーと呼ぶのは呼びよい上モーダンに聞こえます。訳が分からぬ、変てこな新語よりこうした実用向けな新語の普及こそ望ましいです。

今朝は早くから雨降り、お蔭でカーをきれいに洗ってくれます。こちらではカーは雨ざらし、陽さらしです。私のような安物は無論の事、数万弗もする高級なものもそうです。何分、この国にはカーが多すぎるので古物はどんどんつぶして古鉄として日本等へ送ります。

美さん、もう書くほどの事もありませんからこれで止めます。こちらは水瓜の出盛りで値もずっと安くなりました。京都は水瓜の名産地、あんた、うんと食べなさい。夏痩せには何より名菜です。さようなら。

5月10日朝7時半


1961年5月30日

美さん、27日付の手紙を受け取りました。新聞の事、御厄介でした。久し振り、故郷のことを知れると思うと新聞の来るのが待ち遠しくてなりません。

こちらは別に変りはありませんが、暑い為か、とんと食欲はありません。ほとんどお茶漬ばかりですが、少しも痩せません。こちらは、イチゴは終わりに近づきましたが、水瓜は今が出盛りで一個35听(ポンド)位ので小売1弗です。今年は雨が少ない為、甘すぎるぐらい甘いです。今年は不景気な為、何もかも安くて百姓は皆ピリピリです。藷作りだけは皆儲けました。私は昨年10英町(エーカー)作って居りましたか、安値で最後の二、三英町は掘らずじまいで大損しました。今年は自家用の野菜も作りませんでした。一人者は買った方が安くつきます。

5月30日夜


1961年6月14日

玲さん(姪)、ここ二、三日雲がないので蒸し暑い。水瓜は沢山あるが、食い飽きた。氷水をガブガブ飲んで居る。お母さんに住宅を建てて上げたいと書いたら、今住んで居る家で結構だとの事。雨漏りのする古家でも永い間、住んで居ると離れにくいだろう。

英語は難しくてもやるんだ。不遠、アァ習ってよかったという時が必ず来る。満寿ちゃんは無邪気な優しい娘だった。学校でも皆から愛されて居た。死んでからも墓参りする人達をよく見かけた。私も帰ったら花の一枝も手向けて、冥福を祈りたいと思う。

私も映画は大好きだったが、今は見たいとも思わない。三年ばかり前の日米合作の「サヨナラ」を見たのが最後だが、加州や北部地方では日本物をふんだんに見せている。私は未だ日本物を見た事がない。私は出嫌いでなんか止むを得ない用事の外は出かけぬ。一週間前、MRプラウツのアパートへ移った。近所はほとんど留守だし、今はピンキーも居ないので寂しい。今年はマンゴーも豊作だしピーチ(桃)も出だした。

今、キューバとゴタゴタしてパイナップルは払底だ。昨今はウイル(遺言書)の制作で頭を痛めている。遺言書は何時書き換られるか、人間は何時死ぬか知れぬ。特に私のような外国人の独り者は尚更で、慎重な上にも慎重に認めておかねばならぬ。

あと二ヶ月もすると、日本へ行く。楽しいような怖いような気がする。


1961年6月17日

ニューオリンズの日本領事館から森上助次にあてた手紙の一部(1960年8月)。日本への帰国を考えていた助次が自分の旅券について尋ねたことへの返事と思われる。(森上ミュージアム所蔵)

美さんへ、私は遅くも10月中には(日本に)行きたいと思いますが、次から次、思いがけぬ用事の為に時間がかかるのです。行けばどうしても冬越えです。久し振りに雪を見るのも一興でしょう。出来れば脱腸の手術も日本で受けたいのですが、是は癒へるのにかなりな時を要します。

前にも申しましたように、お客さん扱いされるのが何より苦しいです。見すぼらしい田舎のおじが都見物に来た位に取扱って頂きたいのです。私は商用の外は誰にも逢いたくありません。私は、滞在中はあちこちの田舎、重なる山中部で過ごす事でしょう。もっともも足の具合一つですが、ともかく私の為に無駄な費用を使わぬようにして下さい。


1961年7月×日

美さん、この頃、まだ気候のせいか頭が少しぼけて、とんといい考えが出ません。腰も少し痛むので朝寝床で電気按摩を半時間もうけると痛みが止まります。食事は充分注意して居ますが、とんと目方が減りません。一度、思い切って米もコーヒーも豚肉も甘い物もやめようかと思っております。

私は酒も飲まず煙草もすいません。烟系(けむり系)は好きませんが、酒は飲めないのでなく飲まないのです。32年の病後は一滴も口にしません。こうした事は意思の弱き人には望めません。

日本は亦大洪水で惨状を極めて居る。戦時中から森林の濫伐(乱伐)が原因で、これは世界一般の傾向で困ったことです。

この国、特に南部諸州は大いに植林を奨励して居ります。近頃余り雨がないので温度は依然華氏90度(32℃)以上です。もっとも南部フロリダは同じ温度でも海風のお蔭で凌ぎやすいのです。西南部のニューメキシコやアリゾナ州等は百度位に上がり、大部分がウエスターンに出るような砂漠で雨も風もないのです。

近頃、余り日に当たらぬ為か、肌の色が少し褪せたようです。日本人ばかりでなく南部の人は皆、色が黒いです。是は気候の加減でどうする事も出来ません。あんた達でも一年も住むとしぶ紙色になります。

注文した下さった新聞まったく来ません。一日千秋の思いで待つ故郷の便りもどうやら間に合いそうもありません。

1961年8月11日 

〈助次は義妹一家に家を建ててあげたいといっていたが、日本の不動産の価格が予想以上に高いのであきらめたと言う〉

〈日本へは帰りません〉

美さん、あなたの将来の希望と固い決心の程、よく分かりました。今更それを云々する余地はありません。同時に私の企画は水泡に帰しました。一坪の土地が五、六万円。仮に二百五十坪の屋敷として一千五百万円。米貨で約4万弗。アメリカでも地価の高いこの辺の約20倍。その上最小限15坪の家が3万弗、家具が3万弗、合計10万弗。・・・予想外の額。百万弗長者でない私にはどうする事も出来ません。今は止むをえず撤回するより外ありません。

好意からとはいえ、こんな結果になり申し訳ありません。双方、欲の皮のつっ張って居る間は、果てしはなくほって置くより外ないでしょう。

私も一時は帰国、余生を故郷の為に尽くそうと思った事もありましたが、今はあわい一場の夢に過ぎません。そして一日千秋の思いで待った故郷の新聞も遂に来ず。失望しました。今日も私の弁護士で盟友と色々話しました。

「君は故郷では既に過去の人間だ。……恋した故、山に接するだけならともかく、そうでないと却って失望と落胆の外なかろう。故郷の事はただ美しい夢として心の奥に秘めて置いた方がよかろう」と、言われました。

折角、領事館までわずらわした遺言書の件は、親族などには振り回されず、自分の意思通り自由に書き替える事にしました。先日も一富豪が死亡した。その遺言には不貞の妻や子供にはただ申し訳程度で、大部の遺産は教会、病院、学校や多年忠実に働いてくれた召使等へ遺され、庭園の世話をして来た一同胞も多額の遺産をうけました。

美さん、先の事は真っ暗です。自分の事さへ思うように出来ぬのに頼まれもせぬ人の事まで頭を痛めるのは愚の骨頂だとようやく悟りました。夏が来れば冬を思い、冬ともなれば夏を恋う。これは人間自然の情でどうする事も出来ません。

昨日、友人が直径2呎(約60センチ)もあるセンプー機をくれましたが、少し大き過ぎるので返すことにしました。いまある1呎程が頃合いです。この秋は日本へ帰りません。色々騒がせて済みませんでした。


1961年11月14日

明ちゃん(姪)。お手紙、度々ありがとう。約束した帰国も済まなかった。

(中略)私は当分帰らぬ。何もせず遊んで居るのも苦しいので、また好きな土いじりを始めた。折角植えつけた野菜や花を兎が皆食べてしまった。植え替える苗もないのでまた、種子から始めるのだ。こんなに兎が荒れるのは初めてだ。

年取ると、世の中の事がうるさくなる。郊外の農園で自然に接していると、なにもかも忘れてしまう。私の事は心配するな。いずれ逢う時が来る。フロリダは暑からず、寒からずパラダイスだ。今に北からの避寒客で身動きも出来なくなる。

こちらは一時不景気だったが、少し持ち直したようだ。数百万人の人間が仕事がなく、遊んでいるが、政府の補助でさほど困っていない。

物価と税金の暴騰で生活はだんだん苦しくなる一方だ。日本は少し不景気のようだが、また豊年でお百姓は左程困らぬだろう。先日、久し振りへ日本の娘さんと逢った。娘さんといっても、結婚していて男の子も一人ある。三年間ですっかりアメリカ化して英語も中々達者のようだった。来年の3月、帰化するとの事、私はまだ帰化していない。少し頭がよくなったら試験をうけるつもりだ。

(敬称略)

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© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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