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レニア吟社の85年 ~コミュニティーに根付いて~

2018 年8月例会で集まったレニア吟社会員の皆さん

シアトルの俳句結社レニア吟社は2019年、発足から85年を迎える。現在19名の会員は月に1度、四季折々の情景と心情を17文字に込めて持ち寄る。「楽しみながら、苦しみながら、俳句とはもう70年ものお付き合いで離れられません」と会員の高村笙子さん。人を引き付けてやまない俳句だが、ここに至るレニア吟社の道は決して平坦ではなかった。粂井輝子・白百合女子大教授による著作を参考にしながら辿ってみよう(以下、歴史部分は敬称略)。

レニア吟社がシアトルに生まれたのは、1934年。川尻杏雨が提唱し、選者は、医師であり山岳写真家としても知られた小池晩人が務めた。作品発表の場は、杏雨が編集主任であった地元邦字紙『大北日報』。後に杏雨が『北米時事』(『北米報知』の前身)に顧問として移ると、発表の場も北米時事へと替わった。選者の晩人はこの頃、『ホトトギス』に何度も入選を果たしている。ホトトギスは日本で最大かつ最古の俳句結社として俳句を志す者の頂点にあり、入選は大きな名誉だった。1938年には、『レニア吟社句抄』が発行された。

1941年12月、日米開戦。病床にあった杏雨は開戦と同時にFBIにより連行された。シアトル移民局の拘置所からいくつかの抑留所を経て、仮出所という形で1944年春にアイダホ州のミニドカ収容所へ移されたが、同年秋に死去。その間、主にシアトルの日系人が収容されていたミニドカではミニドカ吟社が結成され、晩人の指導でレニア吟社メンバーを中心に150名を超える人々が作句に勤しんだ。戦争の形勢が定まり1945年1月に西部沿岸立ち退き令が解除されると同年7月、収容所での作品を晩人が編集して句集『草堤』が発行された。

1945年8月、晩人によりレニア吟社は復活する。しかし、1947年に晩人もまた死去。翌年、遺稿集『早蕨』が発行された。こうしてレニア吟社創立時の立役者は姿を消した。

その後のレニア吟社は、安井亜狂が選者として支えた。亜狂は1955年にホトトギス同人となり、盛大な祝賀会がまねきレストランを会場に開かれている。亜狂亡き後、選者はこれも在米のホトトギス同人、左右木韋城。続いて保田白帆子、日本の高木春子、今井千鶴子と替わり、今は互選。毎月の作品発表の場は、『北米報知』だ。吟社はその後、小冊子『季寄せ』(1983年)、レニア句集『しゃくなげ』(1986年)を発行。2014年には『しゃくなげ第二集』発行と共に創立80周年を祝った。

――現在幹事を務める茂木ひさをさんは、定年退職をきっかけに俳句を始めて10年。レニア吟社ほかホトトギスへの投句、写真と俳句を組み合わせる写真俳句、ネット句会への参加など、俳句を通じた多彩な活動を行う「いろんな面で立派なリーダー」(会員の久間照子さん談)だ。「俳句の魅力は人生の伴侶となり得る文芸だということ」と茂木さんの語るように、レニア吟社は今後もなお多くの人の伴侶として歩み続けることが期待される。

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レニア吟社 新年一人一句(2019年)

  倖せの皺の手合はせ初詣         高村笙子

  初レニアさりげなく雲流れ行く      久間照子

  年賀状年々減りし沙市暮らし       茂木ひさを

  はつはるや元号変はるあきつしま     酒井光代

  山道に祠のありて初御空         汀泉信子

  ありふれた近所通りも初景色       ミラーこうし

  だしも具も変わることなし雑煮かな    スティーブンス多喜子

  四世代と考も来ている初詣        根岸幸子

  日の色の手帖届きし福寿草        吉迫まありい

  平成に別れ惜しむや年の暮        阿賀嶺泰子

  淑気満つ弥栄祈り御代替         中田美津子

  敷島に想いをはせて初日の出       吉原光風

  氏神に続く夜道に除夜の鐘        ラナンテ未来

  去年今年決意新たに出国へ        葛西さゆみ

  青い鳥降り立つ庭や初景色        西木場ようこ 

 

*本稿は、『北米報知』(2019年1月1日)からの転載です。

 

© 2019 Akiko Kusunose / The North American Post

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