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シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリー

シアトルで知る、海をまたいだ戦争体験 ~藤井ファミリー~

広島県広島市出身で、6歳から10歳まで戦争を体験し、その後結婚を機にシアトルへ移住した藤井藹子(ふじい・あいこ)さん。米国書道研究会シアトル支部やシアトル別院仏教会に属し、書道・花道・茶道などを通してシアトルの日本人コミュニティーで活躍してきた彼女に、戦時中から渡米までの日本での生活と、原爆を体験した父・七森勝郎(ななもり・かつろう)氏との思い出を伺った。

戦時中、藹子さんとその家族は、広島市教育委員会視学として広島市役所に勤務する勝郎と離れて、広島県福山市に疎開していた。福山市も、広島原爆投下の前日にあたる1945年8月5日にはB29による空爆に襲われた。それでも、広島から離れていた母親と兄弟姉妹は、被災を免れた。

広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分。広島に残っていた勝郎は、その日は午後から出勤する予定だったため、原爆が投下された朝は幸いにも市街の中心から少し離れた自宅にいた。「自宅は比治山(ひじやま)の麓近くにあって、比治山の陰になっていたから崩壊せずに済みました。そして、父はたまたま、縁側ではなくて奥の部屋で新聞を読んでいたから(直接の放射能を浴びずにすんで)助かりました。縁側においてあった鉄製のミシンが吹き飛ぶほどの爆風だったそうですから。多くの幸運が重なりました」、と藹子さんは語る。勝郎は責任上、すぐに原爆ドーム近くの市役所へ向かった。市役所へ向かう橋は崩壊し、川はやけどを負って水へ飛び込んだ被爆者たちで埋めつくされているなど、勝郎の想像を絶する状況であった。また、高度の放射能で頭がガンガンするなど、明らかな体調不良が現れた。

福山市にいる藹子さんとその家族が勝郎の無事を知ったのは、原爆投下の1週間後。広島で身内を探していた村人が、犠牲者の確認をしていた勝郎に会い、勝郎から受け取った名刺を福山市の疎開先へ届けてくれた。名刺の裏に書いてある勝郎直筆の文字を見て、家族は胸をなで下ろした。何日か経って、勝郎が疎開先へ顔を見せにきた際には、病気で寝込んでいた勝郎の母親はすぐさまに息子の服を脱がせて体に傷がないことを確かめ、本当に生きていることを実感した嬉しさで元気を取り戻したという。

終戦から1か月後、母親と子供たちは広島市の自宅へ戻った。戦争が終わった後も、混乱と食糧不足は続いた。「父は、私たちが留守中に受け取っていたお米の配給は一粒たりとも口にせず、子供たちのために取っておいてくれました」。藹子さんは涙ながらにそう振り返る。勝郎は配給でもらった食糧を7人の子どもたちに食べさせ、自分は家庭菜園で収穫したカボチャ、サツマイモ、トマト、きゅうりなどの野菜のみを食べ、毎晩の晩酌として徳利一本の日本酒を嗜んでいた。勝郎が広島で被爆したものの、その後の後遺症に苦しむことが無かったのは、放射能を含んだ食べ物ではなく、被爆の軽減に効果的と言われている野菜のビタミンとアルコールを摂取していたからだと藹子さんは後になって知った。

1955年、結婚を機に藹子さんは20歳で渡米した。夫となったのは藤井実(みのる)氏。シアトルで生まれた実は、日系移民一世として酪農業やホテル経営で成功を収めシアトル仏教会を創設するなどシアトル日系コミュニティーの基礎を築いた藤井長次郎(ちょうじろう)氏の孫にあたる人物だ。そして、広島の原爆によって悲劇を体験した一人でもある。

シアトル日本人会の繁栄に貢献した藤井長次郎によって創業された藤井ホテル。戦後、地下にオープンした“デュークズ・プレイス”は、インターナショナル・ディストリクト初のジャズ・クラブとして人気を集めた。現在はヒング・ヘイ・パークとなっている。

大恐慌でアメリカ経済が低迷し日系移民への風当たりも強くなっていた1935年、小学生になっていた実と、弟の壽(ひさし)は、母・シゲと共に生まれ育った故郷シアトルを離れ、数年前に広島へ戻っていた長次郎の元で暮らすため、太平洋を渡った。その後、シゲは実の父のホテル営業を手伝うために子どもたち二人を残してシアトルへ戻り、長次郎は1937年に他界した。幼くして両親と離れて二人で暮らした実と壽は、とても仲の良い兄弟だった。その後、実は九州大学に進学。戦時中は、米国の日系人収容所にいる両親、広島で暮らす壽と、家族が離れて暮らすこととなった。

藤井実と2才年下の弟、壽。小学生の頃に日本に渡り、広島にいる祖父、藤井長次郎の元で生活した。写真は1937年撮影。

そして1945年、広島への原爆投下。実は、弟の壽を失った。壽は念願だった廣島高等学校への進学が決定していたものの、戦争によって中学での勤労動員が延長されたため、入学式を8月1日に迎えたばかりだった。実は、後に廣島高等学校創立70周年の記念誌に寄せた文書で「ほんとうに広島市が全滅して壽は死んだのかと思うと、涙が止めどもなく流れて断腸の思いがした」と記している。

戦後、実はシアトルに戻って働いたが、結婚相手を探すために広島を訪れ、お見合いによって妻となる藹子さんと出会った。そして戦後10年が経った1955年に入籍。藹子さんはシアトルで生活することになった。戦争は終わったとはいえ、原爆を投下した国で生活することを決めた時、藹子さんはどのような心境だったのか。「当時はまだ若かったので、嬉しくも悲しくもなかった。縁談も親任せで、自分に起こっているという感覚がなかった。でも、今となっては両親がどんな思いで送り出してくれたのだろうと思います」

広島の原爆を異なる形で体験した夫婦の話を振り返って、戦時中の出来事を振り返らずして日系移民の歴史は語ることはできないと感じた。私も幼い頃、祖母から戦時中は食べ物がなかったため、子どもたちは道端の草や木の実をこぞって食べていたと聞いた。人によって語り継がれた戦争の体験は、時間が経ってもよく覚えているものである。戦後70年以上が経ったが、戦争を語り継ぐことは、戦時中の悲劇を風化させないためだけではなく、日系移民の歴史を語り継ぐことでもあるだろう。

(一部敬称略)

 

* 本稿は、「北米報知」(2018年5月23日)からの転載です。

シャーロン・イデグチさんによる英語の藤井ファミリーのストーリーはこちらからご覧になれます。>>

 

© 2018 Minami Hasegawa / The North American Post

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このシリーズについて

このシリーズでは、シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリーを探ります。シアトル大学の学生、長谷川美波さんとシャーロン・イデグチさんの二人が、共同でインタビューをし、それぞれがストーリーをまとめました。

ここでは、長谷川さんによる日本語のファミリー・ヒストリーを紹介します。シャーロン・イデグチさんによる英語のファミリー・ヒストリーは別のシリーズでご覧ください。

*このシリーズは、日系移民150周年を記念して「北米報知」に掲載されたものです。