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「花嫁のアメリカ」実録

1996年渡米、バージニア州ヨークタウン在住 ~ かおる・ホリデーさん

横田基地で歯科衛生士に・駆け落ち同然で結婚

現在はバージニア州でエステティシャンとして働くかおるさんの出身地は東京の郊外、立川市。前回、東京オリンピックが開催された1964年の生まれ。

「毎朝、テレビでやっていた旅行番組を見てから学校に行くのが日課でした。小学校の卒業文集にはジャーナリストになりたい、と書きました。世界を駆け巡って活躍することを夢見ていました」

世界を夢見る少女は、高校卒業後に歯科衛生士の学校に通い、資格を取得した。そして、米軍の横田基地で働く叔父から、基地内で歯科衛生士を募集していることを知らされた。「基地には子どもの頃から馴染みがありました。年に1回開催される基地内のフェスティバルに遊びに行ったりもしていましたから」。かおるさんはそれまでの職場だった神田方面より、横田の方が近くなるということもあり、基地内の歯科で働き始めた。

「当時は英語がしゃべれませんでした。(日本の)学校の勉強って文法中心じゃないですか。ですから、会話には自信がありませんでした」

最初はアシスタントとして採用され、1年後に歯科衛生士として働くようになったかおるさんの前に、将来の伴侶が現れた。基地内で経理の仕事をしていたジェームス・ホリデーさんだ。

「出会ったのは私が24歳。彼は7つ上です。患者さんでもあった彼とクリスマスパーティーで会って、その後に付き合うようになりました」

決め手はジェームスさんの根気強さにあったと振り返る。「他のアメリカ人は、私が彼らの言っている意味がわからなくて聞き直すと、面倒くさくなって説明してくれない人がほとんどでした。でも彼は、私がちゃんと分かるまできちんと説明してくれました」。そして6年付き合った末に、駆け落ち同然で結婚。軍関係の人と結婚すれば、その後も日本に残れる可能性は低い。そんな結婚を親は許してくれなかった。しかし、1年後の1995年、長女のシモーンさんが生まれると、親の態度が軟化した。「娘の存在が大きかったです。出産の報告を機に、受け入れてくれるようになりました」。


日本に帰るか、アメリカに残るか

そして、シモーンさんが6カ月の頃にハワイへの転勤が命じられ、かおるさん一家に日本を離れる時がきた。 ハワイには3年、さらにドイツに5年赴任した後、2002年に米バージニア州に渡り、2年後、ジェームスさんは軍を引退した。

「その後、主人はしばらくベースのコントラクター(契約業者)として働いていました。しかし、リストラに遭い、その後は仕事を転々とするようになりました。そのことが、私が働き始めるきっかけになりました。最初はアメリカでも歯科衛生士の資格を取ろうと思っていたのですが、主婦と母としての立場に甘んじていて、その機会を逸していたのです。学校に行っていればよかったと思いましたが、歯科衛生士になるのは4年間が必要だったので断念。ネイルアーティストのライセンスを取得し、さらにエステティシャンの資格も取得しました」

娘シモーンさんの教育のために、夫の死後もアメリカに残る道を決めた  

かおるさんが働くようになって数年後、2012年に転機が訪れた。夫のジェームスさんが心臓発作で突然亡くなったのだ。シモーンさんは高校のジュニアになっていた。かおるさんの頭の中には「生活をどうしよう、日本に帰るか残るか」という今後に対する大きな不安と選択肢が浮かんだ。夫が仕事を転々としていた時期は経済的に安定していず、恩給を受けるための支払いをキャンセルしたため、軍のベネフィットは期待できなかった。そして、夫にかけていた生命保険を確認すると、なんと、夫はかおるさんに知らせないでそれも解約していたことが発覚した。

「日本の親は、帰っておいで、と言ってくれました。それでもアメリカにとどまることにしたのは、娘の教育です。日本語の会話はできますが読み書きまではできない娘はすでに高校の3年生。彼女のために私も頑張ってアメリカで生きていこうと決断しました。そんな時に、ここにいる日本人の方たちの支えがどれだけ大きかったかは言葉にできないほどです。幸運なことに家族のように接してくれる友人に恵まれました」


チアリーダーになった娘とフットボール・ファンだった夫

現在、かおるさんはエステティシャンとしての仕事を続けながら、自分で家のローンも払っていると言う。手に職を就けたことで、結果的に長女とのアメリカでの生活を守ることができたのだ。「最近はメイクアップタトゥーも始めました。仕事は順調です」と語る。

ルールも知らなかったフットボールだが、今はイーグルスの応援に駆けつける

高校のダンス部で活躍したシモーンさんは、進学した芸術学校でもダンスを専攻。そして、もう一つの顔が今年スーパーボウルで優勝したアメフトのフィラデルフィア・イーグルスのチアリーダーだ。

「私は最初、フットボールのルールも知らなかったんです。でも、やっとベーシックは理解できるようになりました。ホームゲームの時はスタジアムの上の方の席ですけど、チケットをいただけるので応援に行きます」

亡くなったジェームスさんは大のフットボール・ファンだった。「娘と話すのは、彼が生きて、シモーンがチアリーダーとして活躍している姿を見ることができたらどんなに喜ぶだろうということです」。そして、ジェームスさんに関しては彼の人柄を表す次のようなエピソードも教えてくれた。「本当に話好きで、初対面の人とでも何時間でも話せるような人でした。彼が言っていたことで忘れられないのが『日本人は毎日同じ時間に同じ通勤電車に乗るのに、一緒に乗っている人と会話しないのはなぜ?』ということ」。それを聞いて、屈託のない楽しい人だったに違いないと思えた。

最後に、「もしも、ご主人と結婚しなかったら、という別の人生を想像したことがありますか」と聞くと、次のように答えた。「それは時々考えます。きっと日本で普通に結婚していたと思います。それでも、自分の決断に後悔はありません。世界に出たいと思っていた子どもの頃の夢は叶いましたし、貴重な経験ができました。今は、娘が将来に向けてどのように羽ばたくかを楽しみに日々過ごしています」。

 

© 2018 Keiko Fukuda

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このシリーズについて

第二次大戦後にアメリカ人将兵に嫁いだ日本人女性、そして80年代にGIと結ばれた日本人女性まで、幅広い世代の「アメリカ軍人と結婚して渡米した花嫁」たちの軌跡を追う。