福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。

(2008年2月 更新)

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教育者でありコミュニティ活動家の日系三世 — キティ・サンキさん

貧困地区の学校転勤が教師としての転機

キティ・サンキさん。日系アメリカ人3世。平成29年(2017年)秋の叙勲で、旭日双光章を受章した。私とキティさんには共通の知り合いがいる。よく噂を聞いていたが、これを機会になぜ彼女がそこまでコミュニティ活動に熱心なのか、日系人と私のような新一世との共存についてどのような考えを持っているのか、ぜひ聞いてみたいと思った。私たちは12月のある日、リトルトーキョーの南加日系商工会議所で会った。

キティさんは、沖縄がアメリカに統治されていた時代に在沖縄米高等弁務官の語学副官を務めたジョージ・サンキさんの長女として東京に生まれた。その後、小学校時代と高校時代を沖縄の米軍基地内で過ごし、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学した。卒業後、彼女が選んだ職業は教師だった。そして ...

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アメリカで生きていく理由 — 新納保夫さん

大卒のプライド捨ててゼロからのスタート

新一世が引退後に日本に引き揚げる話を最近よく聞く。医療費が高いアメリカでは、安心の老後が送れないということを理由に挙げる人もいる。英語を使って生活してきた人でも「医療用語や専門用語は日本語がいい。日本だと言葉の心配がない」と言う人もいれば、「やっぱり家族が周りにいて、美味しい日本食が食べられる日本がいい」と言う人もいる。

新一世が、なぜアメリカに来て、アメリカで何を得て、また、老後もアメリカに残ろうとする場合、その理由は何かに関心がある。その話を、私が所属する大分県人会の活動で知り合った新納保夫(ニイロ・ヤスオ)さんに聞いた。

新納さんは1949年の神奈川県横浜の生まれ。父親は牧師で医者、母は看護師だった ...

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community ja

琉球王国の文化遺産を継承する北米沖縄県人会ウチナーグチ講座

「カタヤビラ・ウチナーグチ」

活発な活動で知られる北米沖縄県人会(ロサンゼルス郊外ガーデナ市)で、ウチナーグチ講座が開設されている。ウチナーグチとはもともとは琉球王国で話されていた言葉。たとえ、沖縄県の人でも、若い世代は標準語とはかけ離れたウチナーグチを理解することは難しいのだという。

同講座は2017年に15周年を迎えた。創設者であり、今も主宰者として講座を運営する比嘉朝儀さんは次のように語る。「沖縄文化を次世代に継承する際に何かが欠けているといつも感じていた。沖縄で親や祖父母から話しかけられていた言葉を私たちは失いかけていた。北米沖縄県人会の会長に就任した時、沖縄の言葉が学べる教室を開講することを私は優先順位の上位に挙げた」

比嘉さんは講座を「カタヤビラ・ウチナーグチ」と名付けた。それは「沖縄の言葉で話しましょう」という意味だ。比嘉さんが沖縄の学生時代 ...

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community ja

10月30日「世界のウチナーンチュの日」— 沖縄県と海外県人会つなぐ山城貴子さん

沖縄県主導でポータルサイト開設

沖縄県は海外の県系人とのネットワーク構築と密なコミュニーションに関しては、他の県とは一線を画す。その絆が形となった一大イベントが、1990年以降、5年に1度、沖縄で開催されている「世界のウチナーンチュ(筆者注:「ウチナーンチュ」とは沖縄の言葉で沖縄県系人のことを指す)大会」である。

今年4月に沖縄県文化観光スポーツ部文化スポーツ統括監となった山城貴子さんは、2021年に開催が予定されている「第7回世界のウチナーンチュ大会」を牽引する役割を担っている。同県文化芸能団と共に2017年10月にロサンゼルスを訪れた山城さんに、県と在外県人会のコミュニケーションについて聞いた。

「昨年開催された世界のウチナーンチュ大会時に、世界各地の県人会の方々とミーティングを持ちました。そこで出た課題は、沖縄の情報発信が海外では不十分であるということ、また県内の人は海外に移住した県系人の歴史をわかっていない世代が増えてきているということでした。そこで ...

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ラーメンに続くかアメリカのうどん文化

「日本と同じうどんを」と渡米した元公務員

日本からロサンゼルスに移り住んだ25年前、まだ当地にラーメン文化は花開いてはいなかった。麺料理では蕎麦の店が数店、うどん店ではオーナーが変わった現在も営業しているガーデナの「さぬきの里」、他に東西プラザの「琴平」がオープンしていたかいなかったかという程度だったと思う。

故郷の大分県では、人々は蕎麦よりもうどんの方を食べていた。しかも関東の濃いスープではなく、薄い出汁。上京した18歳の時に食べたうどんは、それまで慣れ親しんだうどんとは別物だった。味が濃すぎて違和感しかなかった。

しかし、ロサンゼルスに来て讃岐の里で食べたうどんは、讃岐というだけあって、西日本のもの。私たちの地域のうどんに非常に近かった。それでも、知る限り、うどん店は長らくロサンゼルスで増えることはなく ...

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