福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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米国で生きる日本人の選択

2011年渡米、ヤクルトを全米に普及・コロナ渦中に帰国した清水実千男さん

「ビジネスマンであれ」 アメリカではアジア系以外の人には馴染みがなかった健康飲料のヤクルトを、ヤクルトUSAのプレジデントとしての在任中に、50州中49州にまで普及させたのが清水実千男さんだ。清水さんは2011年に前任地のシンガポールからロサンゼルスに赴任し、同地で10年間を過ごした。その後、コロナ渦中の20年、ロサンゼルスから日本に帰国、ヤクルト本社を退職すると同時に故郷の鹿児島県霧島市に転居した。目的は、長らく離れて暮らしていた母親と同居するためだった。 「ところが、私が日本に戻る辞令を受ける10日前に母は亡くなりました。96歳でした。私としては、1年、いや数カ月でもいいから母と一緒に住みたいと思っていました。私が大学に進学する17歳までしか一緒に住んでいませんでしたから。シンガポールに出る時も母に『戻ってくるまで待っていてほしい』と言って許可を得ていました。父は私がシンガポールに赴任して3年目に亡くなりました。そして、母の時も私の帰国が間に合いませんでした」。 シンガポールの後、横滑りで赴任したロサンゼルスでは、米国法人の代表として清水さんには多くのやるべきことがあった。「まずは、ヤクルトのアメリカ国内での工場の開設です。十分な量を流通させるためには、自国生産を行う必要がありました。そして15年にオレンジ・カウンティーに工場をオープンし、流通する州も、西海岸から始…

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1960年渡米、65年からオックスナードで農場経営・永利ファームの永利国光さん

短期農業労務の後に再渡米 これまでにアメリカで日本野菜を栽培している農場のオーナーを取材してきたが、今回、ご紹介する永利さんはカリフォルニア州のオックスナードで広大な農園Nagatoshi Farmを経営し、さらに野菜果物の卸業であるNagatoshi Produceのオーナーでもある人物。福岡県出身の永利さんは1939年生まれ。21歳の時、短期農業労務者のビザで3年の期間限定でカリフォルニアにやって来た。 オックスナードの農園で研修という名の農作業に従事している間、彼の目線は常に「自分が経営者だったらどうするか」というものだったと話す。「9人兄弟の8番目。自分の居場所は日本にありませんでした。人に使われるのは好きではなかった自分の目標は、海外で農場を経営すること。アメリカか、もしくは南米に移住したいと思っていたから、最初の3年間も仕事が苦しいとかきついとかいう気持ちはなく、農場の経営について吸収したい、習いたいと必死でした」。 当時、1ドルは360円。「日本で働いていた時は1日の日給が300円でした。ところがアメリカに来たら、1時間1ドルもらえました。そして、1日、12時間から13時間働き、週に6日、時には7日働き続けました。3年で貯めたお金は5000ドル。もったいなくて使えませんでした。日本円にして180万円です。日本では100万円あれば一軒家が建つ時代でした」。お…

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米国で生きる日本人の選択

駐在員としてカナダ、アメリカに暮らした増田義彦さん

カナダ永住決断後に… 2014年までカリフォルニアに駐在し、JBA(ジャパンビジネスアソシエーション)の会長も務めた増田義彦さん。カリフォルニアから東京に戻って5年ほど経った頃の増田さんが、日本の新設大学で特別講師を務めることになり、学生向けの紹介記事を書くために取材したことが知り合ったきっかけだった。最初から増田さんの印象は鮮やかだった。私がメールで取材を申し込むと、「今、ニューヨークの空港で乗り換えのために待機中なので、電話で取材を受けられます」と、彼はその場で取材に応じてくれたのだ。多くの駐在員を取材してきたが、増田さんの型に嵌らない柔軟な姿勢は飛び抜けていて「駐在員らしからぬ」ものを感じた。 その後、SNSを通じて、増田さんが再びアメリカに渡ったことを知った。新天地はノースカロライナ。私はなぜアメリカに戻ってきたのかを含めて、彼が駐在員の目からアメリカという国をどう見たのか、また最終的にどこに落ち着こうとしているのかを改めて聞くために、zoomでノースカロライナの増田さんと繋がった。 増田さんが最初にアメリカに来たのは1979年。ボストンに短期留学してきたそうだ。ちなみに、留学を前に神田外語学院で英語を学んだ際に、後ろの席に座っていたのが後の妻となる逸子さんだった。ボストンで3カ月を過ごし、「いつかまたアメリカに戻って来たい」と思ったが、それが実現する…

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1995年渡米、サンディエゴで介護ホーム経営する磯聖子さん

30代後半での離婚が転機に ロサンゼルスにあった介護施設、敬老の数年前の売却のニュースは大きな注目を集めた。日系人や日本人の引退者が終の住処として入居の申請をし、ウェイティングリストには大勢の名前が並んでいた。その人気の秘密は日本食が出され、施設内で日本文化に興じるクラスが開催され、何より日本語を話す入居者同士やスタッフとの交流があったからだ。この施設が米系不動産会社に売却された今、日本人の引退者は一体どこで老後を過ごせばいいのか、将来を重ね合わせて不安になっている人は少なくない。そんな時、サンディエゴで介護ホーム、Ohana Care Homeを経営している日本人女性、磯聖子さんのことを知った。彼女が一体どういう経緯で介護ホーム開設に至ったのか、オンラインで取材に応えてもらった。 聖子さんが最初に渡米したのは1995年、目的はサンディエゴへのコミュニティーカレッジへの留学だった。その後、4年制大学への編入を目指したが、学費不足で一旦、日本に帰国。「日産自動車で働くことになり、日本での生活も楽しく充実していました。それでもずっと『アメリカに戻って大学を卒業したい』という夢を諦められなかったので、30歳目前でまたサンディエゴにやってきました。親は『大学なんて行かなくていい。結婚して子どもを産んでほしい』と言っていましたが、それを振り切って(笑)、今度は絶対に卒業するという覚…

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アメリカの日本語媒体

第10回 1975年から2010年まで発行・日系文化を育む雑誌『TV FAN』

日本語テレビ番組を紹介 私が初めてフリーランスのライターとして活動を開始したのは2003年、原稿を書かせてもらった雑誌の名前は『TV FAN』だ。以降、同誌の最後の発行人となった竹内浩さんが2010年に発行を止めるまで原稿を書かせてもらった。そして休刊後、日系のイベントに行くと、「『TV FAN』はもう発行されないのですか?」と読者から度々質問された。あれから11年経ち、今はもうさすがに聞かれることはなくなったが、質問されていた頃は「『TV FAN』は随分と熱心な読者に支持されていたのだ」と改めて実感したものだ。 竹内さんを「最後の発行人」と書いたのは、彼の前に2名の発行人がいたからだ。創刊は1975年。故塚原孝吉さんが、ロサンゼルスで放送されている日本語テレビ番組のプログラムを紹介する雑誌として世に送り出した。当時、日本のテレビ番組の放送局は4社あったそうで、インターネットもない時代、日系社会の人々はドラマをはじめとする日本の番組を楽しみに日々を生活していた。ドラマの放送時間には、リトルトーキョーの街から人の姿が消えてしまったと聞く。 それらの番組紹介を記事にして載せた『TV FAN』では、日系社会の歴史を辿るコラムも人気を集めた。テレビ番組の詳細が分かると同時に、自分たちが暮らす日系社会について深く知ることができる日本語雑誌として、塚原さんの後を継いだ故片桐信行さん…

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