ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1527/

収容所での母(英語)

(英語)家に遊びに来ていたサンフランシスコの子供時代の親友の一人が、よくこう言ってました。「君のママは、本当に典型的なアメリカのお母さんって感じだね」。母はいつも身だしなみを整え、白いエプロンをしていました。いつも素敵な身なりで、いかにも60年代のテレビ番組に出てきそうなお母さんでした。私が小さい頃は、中心部のマーケット・ストリートに行くだけでも母は私に良い服を着せ、頭からつま先までおしゃれさせられました。母もめかし込み、帽子やコート、ハイヒールを身に付けていました。そして路面電車で出かけました。しかしそれは、サンフランシスコではそうだったということです。

収容所に来ると、どこに居てもほこりっぽく、道路は舗装されていませんでした。アスファルトの舗装をしている最中でした。散歩に出かけると、道路の舗装作業をしている男たちが母に向かって口笛を吹いてきたことを覚えています。子供だった私は、腹が立つやら恥ずかしいやらでした。母は収容所でハイヒールを履き、すっかり着飾っていたからです。母が若かった時のことを、私はいつもそんな風に記憶しています。


強制収容所 母親 トパーズ強制収容所 アメリカ合衆国 ユタ州 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2015年8月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1934年7月17日、二世の両親のもとサンフランシスコに生まれる。5歳の時に見た『白雪姫』に衝撃を受け、その後生涯を通してアニメーションに夢中になる。第二次世界大戦中、家族と共にユタ州トパーズで強制収容される。その後カリフォルニアに戻り、アニメーターになることを目指してウォルト・ディズニーが好んだロサンゼルスのシュイナード芸術学校(現カリフォルニア芸術大学)に入学。伝説的アニメーター、イワオ・タカモトの指導の下、ウィリーの情熱は開花し、ディズニー、ワーナーブラザース、ハンナ・バーベラ・プロダクションで黄金期を過ごし、アニメーションの世界で長いキャリアを積む。クレジットされている仕事は、『わんわん物語』、『What's Opera Doc?』、『原始家族フリントスト-ン』、『クマゴロー』に及ぶ。

ウィリーは今でも絵を描き続け、日系アメリカ人の第二次世界大戦中の経験を描いた絵本のイラストも手掛けている。サンディエゴで開催されるコミコン・インタナーナショナルでは絵にサインをしたり、ファンと言葉を交わしたりするウィリーを見つけることができる。(2016年9月)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)