ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1343/

渡米初期のアメリカの印象(英語)

(英語)フラミンゴ・カンパニーで最初の仕事に就いた時、英語はさっぱりわかりませんでした。この会社には飛び込みで行きましたが、面接をしてくれました。いろいろ質問されましたが、全然答えられませんでした。でも僕はラッキーで、日系二世の人がいたんです。彼が僕に面接のようなことをしてくれましたが、彼もそんなに日本語が上手ではなかったので、何と言うか、カタコトの面接でした。でもなんとかなって、支配人が僕を雇うことを決めてくれました。

家に帰る途中、僕は、もしかするとアメリカっていう国は、自分が思っていたような国ではないかもしれないと思いました。彼らは僕が誰か知りませんでしたし、その時が初対面でした。そして僕は英語を話せませんでした。僕が良い働き手かどうかもわからないのに、雇ってくれたのです。これには一考の価値がある、と思いました。

最初にお話した考え方から変化し、僕は初めて、もしかするとこの国は良い国なのかもしれないと思いました。そして、アメリカについて考え始めました。この国について、初めて深く考えてみようという気になったのです。


世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2012年2月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

ヘンリー・シミズ

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

ブラジルへ来る船の中で

笠戸丸移民