ディスカバー・ニッケイ

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才能をもった第100歩兵大隊の人たち(英語)

(英語)第100歩兵大隊は珍しい人材の集りでした。隊を離れたものは一人もいませんでした。当時の平均的なアメリカの部隊では、隊員が実力を証明したり、教育を受けたり何かすると昇進され、(そういった隊員は)別の部隊を編成するために(所属していた)部隊を離れていきました。でも第100歩兵大隊の中で、別の部隊を編成するために隊を離れた者はなく、全員がこの部隊に残りました。ですから、私達は一人の隊員も失いませんでした。またふと立ち止まって考えると、(この部隊の)平均教育水準は非常に高かったのです。後にB中隊の曹長となったある人は、私たちが訓練をしている当時、私の(部隊の)一等軍曹でした。彼はテキサスの法科大学出で、戦後にハワイで日系アメリカ人初の連邦判事、マウイの判事となりました。そんな能力を持った男が一等軍曹で、後に一等曹長だったのです。通常の部隊に法科大学の卒業生なんていません。それ位この第100歩兵大隊には色々な才能をもった人たちがいたのです。


第100歩兵大隊 第442連隊戦闘団 軍隊 (armed forces) 軍隊 アメリカ陸軍 第二次世界大戦

日付: 1995年8月28日

場所: 米国、カリフォルニア州

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。

戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。

キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。

後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)