ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1015/

幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)

私は新品の少尉の制服に身を固めていたいましたから、彼ら(警備兵)は驚愕していました。当時はまだ収容所に監視塔があり、彼らは憤りを感じており、夜になるとサーチライトが照らされている(ような時)でしたから。武装した警備兵の姿も見えました。ジェローム収容所がまだ建て始めの頃で、ダックウォーク(?)もまだ建っていませんでした。わかりますよね木箱で作る・・・私はある家族と住んでいましたが、隣の家族との間に木製の仕切りはなく、毛布をワイヤーにひっかけてそれを洗濯バサミで止めるという状態でした。私はその収容所で8日間過ごし、大食堂で食事をとり、共同のシャワールームでシャワーを浴びましたので、収容所の様子がどんなものかわかっていました。


日付: 1995年8月28日

場所: 米国、カリフォルニア州

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。

戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。

キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。

後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ヘンリー・シミズ

真珠湾攻撃の影響の少なさ (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中のカナダ在住の日本人漁師らの扱い (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府によってサポートされた邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

エリック・ナカムラ

マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

マサオ・コダニ

強制収容所での思い出(英語)

ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。

ユリ・コチヤマ

隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

仕事熱心な一世(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

収容所のポジティブな側面(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)