サンパウロに行けば、「日本」に会える。サンパウロから約1000キロも離れた内陸ブラジリアの若者たちには、そんな共通認識がある。その「サンパウロ」は、ばくぜんと東洋街を指しているようだ。
以前にも述べたように、サンパウロには、「日本人街」と呼ばれたいくつかのエリアがあった(本連載第5回ピニェイロス地区参 照)。戦前から戦中にかけては、「コンデ界隈」と呼ばれたエリアがもっとも規模が大きく、ついでピニェイロス地区、その次が市立中央市場(Mercado Municipal=メルカード・ムニシパル)の周辺で、通りの名を取って「カンタレーラ街」と呼ばれていた(地図5-1参照)。
「東洋街、東洋祭り、東洋市、鳥居の建立も、すずらん灯も、すべてミズモトの頭から出たんだよ…」
世界のどの移民史の局面でも、エスニックタウン形成の初期には、強力な指導力をもった大物リーダーが存在した。サンパウロ東洋街創設にかかわった日系大物リーダーといえば、まず思い浮かぶのが田中義数(1909~1979)と水本毅(1920~1989)であろう。
最近ブラジルでは、「日系文化」や「新日系文化」という言葉が邦字紙を中心に使われだした。この言葉は、「『日本文化』をベースにブラジル風にアレン ジした文化」という意味で使われているが、「日本の日本文化」から、自らの「日本文化」を「日系文化」として自覚的に差異化し、多文化的な「ブラジル文 化」を構成する一要素として位置付ける姿勢を示している。
70年代中頃のトーマス・デ・ゴンザーガ通り―派手な電飾、クラブの入口から千鳥足でよろけ出すスーツ姿の日本人男性たち、それを見送る化粧の濃いホステスたちの嬌声―東洋街には、盛り場としての「夜の顔」があった。
週末の東洋街はこのエリアを訪れる人たちと車でごったがえす(写真8-1)。東洋市を訪れる観光客、東洋食品や製品を扱うスーパーの買い物客、日・ 中・韓の各料理店で食事を楽しむ人びと、なんとなく駅前にたむろするJ-POPファンの若者たちなど、さまざまである。また、このエリアは、4月の花祭 り、7月の七夕祭り、12月の東洋祭り、大晦日の餅つき大会というエスニック・イヴェントの中心でもある。これらのイヴェントのある日、リベルダーデ広場 はお祭り広場と化す。
1950年代の前半から、シネ・ニテロイをはじめとして四つの日本映画専門館がリベルダーデ地区に営業し、「昼なお暗き」と形容されたガルヴォン・ ブエノ通りにネオンがまたたくようになった。また、1964年には、サン・ジョアキン通りの坂下、ガルヴォン・ブエノ通りとの交差点に、サンパウロ日本文 化協会(ブラジル日本文化協会の前身)センタービル(以下「文協ビル」)が竣工する。この二つの契機によって、リベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通 りを経てサン・ジョアキン通りまでの空間が、一つのまとまったエリアとして日系住民の間で意識されることとなった。後に東洋街として発展していくエリアの 誕生である。
サンパウロ地下鉄南北線のリベルダーデ駅を出ると、派手な看板をかかげた飲食店や日本・中国・韓国の食品・食材を売るスーパーマーケットがひしめく一角に 出る。東洋街の中心リベルダーデ広場だ(写真6-1)。ここから南に向かってガルヴォン・ブエノ通りが走っており、夜になると商店のネオンとともに赤い ポールのすずらん灯が街路を照らす。かつて世界最大の日本人街と呼ばれた東洋街は、サンパウロ市のほぼ中心に位置するリベルダーデ地区の商業・観光エリア であり、リベルダーデ広場から、ガルヴォン・ブエノ通り、グロリア通りを経て、サン・ジョアキン通りまで広がっている(地図1、2参照)1。