Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その4

>>その3

南カリフォルニア大学における人種差別

1950年代を迎えると、三世の日系人が高等教育を受けるようになりました。そのなかでも、医療従事者を目指すものが増えてきました。ハワードさんの甥である、永松先生もそのひとりです。

しかしながら、高等教育を希望する学生にとって、教育現場における差別は深刻な社会問題でした。特に、当時の南カリフォルニア大学の歯学部においては、日系人をふくめたアジア系学生に対する人種差別が激しかったのです。

永松先生はわたしに宛てた手紙のなかで、このようなことを書いていました。

「白人の上級生が、新入生にあいさつをする機会があったのだが、その白人は、白人の新入生にだけ、ひとりひとり、丁寧に、それも非常に親しく挨拶をしていた。しかしながら、私にたいしては、一度たりとも挨拶をすることはなかった。その白人は、私の前をとおりすぎて、私のことを無視したのだ。」

さらに、日系だけではなくアジア系の学生たちは学内にある医療器具を自由に使うことができず、歯科医師になるための勉強を思うように進めることができませんでした。

驚くべき行動

南カリフォルニア大学に通う日系人の学生たちが激しい人種差別を受けたいたことを知ったハワードさんは、差別と偏見に耐えていた学生たちを支援するために、驚くべき行動に出ました。それは、南カリフォルニア大学に在籍する人種差別と闘っている歯学部の学生たちに、自らの事務所を開放することでした。

ハワードさんは、学生たちに自分の事務所の鍵のコピーを与えました。そうすることで、学生たちは、必要なときに彼の事務所に足を運び、好きなだけ勉強をすることが出来たからです。

学生たちは、講義で出された課題をやるため、ハワードさんの事務所を訪れ、日夜問わず事務所にある器具をつかって課題をこなしました。ときには、ハワードさんは学生の「教授」としてアドバイスをしました。

アンさんも、ハワードさんを全面的にサポートしました。アンさんは、足を運んできた学生たちの話し相手となったり、食事をふるまったりしました。学生のなかにはアンさんに悩みを打ち明けた人々もいたかもしれません。しだいに、彼女は学生たちの「母親」役をつとめるようになりました。ちなみに、ハワードさんは、アンさんの手助けをしていくうちに料理の達人になったそうです。

そして、学生たちは南カリフォルニア大学を卒業し、それぞれの進路を歩んでいきました。そんな学生たちの成長を、ハワードさんとアンさんは、暖かく見守り、ときには、人生における師匠のように助言を与えていました。

しばらくして、学生たちがハワードさんの事務所に足を運んで勉強をしていることが、歯学部の教授のあいだでも知られるようになりました。ハワードさんは、仕事の素晴らしさだけではなく、人格者や教育者としてもその名を知られるようになったのです。

真なる無償の愛

ハワードさんのことを色々と書いてきましたが、読者のなかには、彼が学生に自分の事務所の鍵を与えることに大きな疑問をうかべる人々がいることとおもいます。さらには、学生に高価な歯科技工の器具を貸しだすこと、それだけではなくて、食べ物までふるまうハワードさんとアンさんが、どんな人々なのか、ますます謎が深まるのではないでしょうか。

ハワードさんとアンさんはこれらのことをすべて「無償」でやっていました。学生たちには見返りを一切要求しませんでした。歯学部の学生を助けるために、自分自身が出来ることをひとつでも多くやろうとハワードさんは考えていたのです。

永松先生はわたしに宛てた手紙のなかで、ハワードさんにお世話になった人々のコメントを書き加えてくれました。そこには、日系人だけではなく、中国系や中南米系の人々のものもありました。そこには、ハワードさんの差別に毅然と立ちむかう姿勢と、将来をになう医療従事者への期待と心遣いが、うかがえます。

そして、ハワードさんのもとからは多くの歯科医師が「巣立って」いきました。このことは、永松先生も、大変強調していました。

もしも、ロサンゼルスで活躍している、アジア系などの歯科医師たちに、最も尊敬すべき存在は誰かと問えば、多くの人々がハワードさんの名前を挙げることでしょう。もしもハワードさんがいなかったら、その当時南カリフォルニア大学に在籍していた学生たちの多くは、歯科医師になるための夢をあきらめねばならなかったでしょう。

その5>>

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その3

>>その2

フレズノへの「かなわぬ逃避」

1941年12月7日、ハワードさんと永松家の人々は、いつものように教会での礼拝を終えて家にいました。そのとき、ラジオで信じがたいニュースが流れたのです。日米戦争の勃発でした。戦争が起きたこと、そして高まる反日感情への危惧感などから、永松家の人々は家のなかでじっとしていました。これから何をすべきか、わからなかったからです。日系人にとって、日米戦争はありえない出来事であって、戦争勃発直後は多くの日系人が恐怖感におそわれたのです。

そして、永松家はひとつの決断をくだしました。それは、オレンジ郡を離れ、ジョージさんの弟であるトーマスさんが住むフレズノ郡のデル・レイへ住むことでした。住み慣れた地域を離れることは、非常に辛い決断でした。家を出ること、それは財産を放棄することにもつながります。数十年の時をかけて創りあげたかけがえのない家族、そして財産が水の泡になってしまいます。しかし、それが最善の選択であると信じ、ハワードさんも永松家と共にフレズノへ移住しました。

その後、大統領行政命令9066号によって、日系人の強制収容が執行されました。執行にあたっては、はじめにロサンゼルスのターミナル・アイランド地区と、シアトルのベインブリッジ・アイランド地区にいた日系人がマンザナーに収容されました。それを皮切りに、太平洋岸の主要都市に住んでいた日系人が次々と収容施設に送られていきました。しかし、その当時はまだ、フレズノなどカリフォルニア州内陸部にいた人々への強制収容は執行されていなかったので、永松家の人々は、フレズノにいれば全てを失うことがないだろうと考えていました。

しかしながら、フレズノにいた日系人も、まもなく収容施設に送られることになりました。ハワードさんと永松家の人々は、フレズノに住んでいた他の日系人とともに、足を運んだことのないアリゾナ州ヒラ・リバーの収容施設に送られることになりました。ちなみに、戦争の勃発までオレンジ郡に住んでいた日系人の多くも、アリゾナ州ヒラ・リヴァーもしくはポストン収容施設に送られました。

「囚われの身」となったハワードさんと、永松家の人々は、収容施設のなかにつくられた教会に通ったり、スポーツに興じたり、あるいは、農作業をするなどして、毎日を過ごしていました。

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それぞれの「路」へ

日米戦争の戦況が、アメリカの優勢になるにつれて、アメリカ政府の日系人にたいする視線が軟化していきました。仕事を得たために、あるいは、教育を受けるために収容施設を出て行く日系人が少しずつ増えていきました。

運の良いことに、ジョージさんはユタ州で農作業の仕事を得ることができました。そのため、家族そろってユタ州に向かいました。一方、ハワードさんは、ほかの二世の若者と一緒に、教育を受ける目的でミネソタ州に向かいました。

反日感情が非常に高いカリフォルニア州とは異なり、当時の中西部には日系人の学生を受け入れる学校がありました。それは、教育の機会が失われていた日系人の若者にとっては、ひとつの希望の光でした。

ミネソタ州へ向かったハワードさんは、まずは手に職を得るため、歯科技工士の訓練を受けることにしました。昼は歯科技工士になるための勉強に励み、夜も大学でさらなる勉学を続けました。猛勉強のかいがあって、終戦直前には、彼は一人前の歯科技工士としてひとり立ちできるようになりました。

1943年、彼は妻となるアンさんと出会いました。アンさんは、両親が高知県出身の日系二世です。ふたりは1944年9月23日に結婚しました。終戦の直後の1947年に、ハワードさんはアンさんとともに、住みなれたカリフォルニア州に戻りました。

歯科技工士としての活躍

ハワードさんは1947年に、リトル東京にあったタウル・ビルディング(Taul Building)の3階に、自らの事務所、メトロポリタン歯科技工所を開設しました。このビルの中には日系人の医療従事者がおり、近隣には歯科医院を営む日系人が多くいたので、ハワードさんを頼って多くの人が事務所を訪れました。

事務所の経営は、歯科技工にかかわる仕事をハワードさんがすべてこなし、事務や経理の仕事をアンさんが一手に引きうけました。ハワードさんとアンさんの絶妙な二人三脚によって、メトロポリタン歯科技工所は成り立っていました。

さて、このハワードさんが事務所をかまえたタウル・ビルディングですが、リトル東京の一番街とサン・ペドロ街の交差点にありました。1980年代後半、タウル・ビルディングは地震による損傷を受けたため取り壊さなければならず、事務所も閉鎖せざるをえませんでした。しかし、タウル・ビルディングの取り壊しの直後、友人のトシ・ナカジマさんの援助もあって、ハワードさんはオニヅカ街に面したエンパイアー印刷所の事務所に、仮設の歯科技工所を設けることができました。

その4>>

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その2

>>その1

千代子さんの結婚

アメリカに戻った千代子さんは、キングス一家の紹介で、ニューポート・ビーチに住んでいたキングス一家の親類ウインクラー一家と一緒に暮らすことになりました。千代子さんは住みこみのベビー・シッターの仕事をしつつ、ガーデングローブにあった日本語学校で教師として働きました。当時は、まだオレンジ郡には路面電車がありました。千代子さんは電車に乗って、ニューポートビーチからガーデングローブに通いました。

まもなくして、千代子さんはジョージ・永松さんと結婚することになりました。ジョージ・永松さんは、永松家の長男で、弟のフランクさんとともに、当時の最先端の農業技術を活用して、オレンジ郡のガーデングローブで青唐辛子の栽培を行っていました。その当時のオレンジ郡では、青唐辛子の栽培がさかんで、アメリカで消費される青唐辛子の多くが、オレンジ郡の日系人によって栽培されていました。

そんなふたりが出会ったきっかけは、その当時、日系社会の交流行事のひとつとして行われていた運動会でした。子供たちを引率する先生として運動会に参加していた千代子さんが、ジョージさんの目にとまったのです。子供たちの引率という役目があった千代子さんですが、ラフな格好で参加することが望ましいとされた運動会に、その日彼女はおしゃれな服装で出向きました。そのため、彼女の格好はとても目立つものでした。以来、ジョージさんは千代子さんに興味を持つようになり、友人たちの助けもあって、千代子さんがウインクラー一家と同居していることを知り、交際が始まったのです。

千代子さんは、ジョージさんとの交際において、ふたりがお互いにクリスチャンであったことがとても重要であったと、わたしに話してくれました。千代子さんとハワードさんは、母親の影響でクリスチャンになりました。一方、永松家の人々もクリスチャンで、現在はサンタ・アナ市にある日系のウインターズバーグ長老教会を支える人々でもありました。

ふたりは1936年にめでたく結婚にたどりつきました。結婚式と披露宴は、リトル東京にあるロサンゼルス合同教会で行われました。結婚式と披露宴のために、広い場所が必要だったからです。なにしろ、永松家はジョージさんをふくめて、8人の兄弟と姉妹だけではなく、多くの親類がいたからです。

千代子さんの結婚を機に、カリフォルニアに戻ったばかりのハワードさんは、永松家の人々と一緒に生活を共にするようになりました。

学業・部活動・そして農作業に明けくれた十代の日々

高校生になったハワードさんは、昼間はガーデングローブ高校に通い、それ以外の時間は永松家の農作業を手伝いました。

農作業はとてもとても骨の折れる仕事でした。特に青唐辛子の収穫の時期は、毎日遅くまで作業が続き、夜中まで働くことも少なくはありませんでした。香辛料を製造する業者へ青唐辛子を出荷する前に、ゆっくりと時間をかけてカラカラに乾燥させなければいけませんでした。収穫した青唐辛子を乾燥小屋(ドライ・ハウス)へ運び、そこで火をおこし、その熱風で青唐辛子の水分をとばすのがハワードさんの仕事のひとつでした。とても時間と手間のかかる作業でした。

また、ハワードさんは、灌漑設備をつくるためにトラクターを使った作業をすることもありました。当時のオレンジ郡での農業においては、農作物の両わきに溝をつくり、そこに汲みあげた井戸水を流すことによって、農作物に水を与えていました。

一生懸命農作業を手伝っていたハワードさんではありますが、千代子さんいわく、ハワードさんは、実は農作業をあまり好まなかったとのことでした。学業と部活動、さらには農作業を両立させた生活を過ごすことは、当時10代後半のハワードさんにとっては、非常に大変なことでした。

アスリートとしてのハワードさん

ガーデン・グローブ高校では、ハワードさんは短距離走の選手としても大活躍しました。インタビューのさいにハワードさんは、高校生になって初めて、体格が大きなアフリカ系の陸上選手に会ってとても驚いたことを、わたしに話してくれました。

また、ハワードさんは剣道も得意としていました。「剣道は得意ではない」と自分では謙遜していましたが、地元で開催された試合では、すばやく綺麗な面打ち、そして胴打ちを自由自在にあやつり、10人抜きを達成してしたこともあります。

しかしながら、思い出の多い高校生活のあとに待っていたものは、戦争という辛い運命でした。日米戦争の勃発によって、ハワードさん、そして永松家の人々の運命は大きく変わってしまったのです。

その3>>

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その1

先日、わたしの研究活動を長年にわたって支えてくださっている、ロサンゼルスで歯科医院を営んでいる、アーネスト・永松先生から、先生の叔父ハワード・小川さんのドキュメンタリー作品をつくっているとのメッセージを受け取りました。

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わたしがアート・ハンセン先生のご指導のもとでカリフォルニア州オレンジ郡の日系社会の研究をやっていたときに、一番最初にオーラル・ヒストリーに応じてくださったのが、ハワードさんと、彼の姉であり、永松先生の母親でもある千代子さんでした。永松先生とハワードさんは、甥と叔父の関係にあたります。

ハワードさんと千代子さんは、帰米とよばれる日系二世です。帰米はほかの二世と同じようにアメリカで生まれましたが、家族や親類の都合、あるいは、両親である一世の意向などによって、幼少期から少年期までのあいだを日本で過ごし、日本で教育を受けた日系人です。

千代子さんとハワードさんのオーラル・ヒストリーに、わたしは非常に強い力を感じました。ふたりの「語り」をとおして、活きること(生きること)の素晴らしさ、希望を持ちつづけることの大切さ、信仰の大切さ、さらには正義をつらぬくことの大切さを、わたしは学びました。

悲劇

ハワードさんは1919年4月17日、カリフォルニア州北部のバークレーで生まれました。ハワードさんが生まれてまもなく、彼の父親はこの世を去りました。さらに悲しいことに、父親の死につづいて、母親が重い病気にかかったのです。闘病生活をおくっていた母親は、人生の最期を日本で迎えることを決め、ふたりの幼い子供たちをつれて、サンフランシスコを出発しました。

神戸に向かうクリーブランド号(現在のアメリカン・プレジデント・ラインズ社が所有し、太平洋航路で運航していた船の名前)の中で、ハワードさんの母親は寝たきりの状態になってしまいました。そこでは、白人のキングス一家とユダヤ系のシルバーバーグ一家が、母親とハワードさん、そして千代子さんの世話をしてくれました。

ところが、非常に痛ましいことに、船が神戸に到着する2日前に、ハワードさんと千代子さんの母親が亡くなったのです。さらに、亡くなった母親が持っていたお金が、見知らぬ人に盗まれてしまいました。キングスさんはすべてを失った幼い子供たちに、「アメリカに戻りたければ、いつでも手紙を書きなさい。すぐに返事を書きますから」と告げました。神戸に到着したあと、ふたりの幼い姉と弟は親類にひきとられました。

福岡県八女市にて

ハワードさんと千代子さんはその後、母方の祖父母の住む福岡県の八女市で元気に過ごしていました。そして、ふたりは地元の尋常小学校に通いました。千代子さんはその当時のことを、「毎日のように、ほかの子供たちに追いかけまわされたのよ!」と語ってくれました。近所の子供たちにとって、帰米の子供たちはとても珍しい存在だったのです。

また、千代子さんは本来ならば6年生に編入されるはずだったのが、アメリカ生まれで日本語があまり理解できていないという理由で、4年生に編入されました。帰米にとって、日本語の習得もふくめて、日本の教育制度に適応することはひとつの高いハードルだったのです。その後、ハワードさんは中学校に、そして千代子さんは高等女学校に進学しました。千代子さんが通った高等女学校は、現在の福岡県立福島高等学校です。

その当時は、現在の教育事情とは異なって、上級の学校に進学することは珍しいことでした。ハワードさんと千代子さんの祖父母は、アメリカ生まれであり、将来はアメリカに戻るだろうふたりのために、日本にいるうちにしっかりとした教育を受けさせようと考えていました。千代子さんは、「ほかの女子生徒たちは花嫁修業をするための学校に進学しました。しかし、わたしは高等女学校に進学しました。高等女学校では、先生たちが私のことを大切にしてくれました。祖父母にはとても感謝しています。そして、教育の大切さを実感しました」とその当時のことを語っていました。

また、千代子さんは船のなかで出会ったキングス一家やシルバーバーグ一家と、文通を続けていました。とくにキングス一家は、千代子さんにたいして非常に親切でした。キングス一家は、たびたび千代子さんにプレゼントを贈っていました。キングス一家や遠縁の親戚の支援などもあって、千代子さんとハワードさんは1930年の半ばに、アメリカに戻りました。はじめに、千代子さんがカリフォルニアに戻り、千代子さんを頼るかたちでハワードさんがカリフォルニアに戻りました。

その2>>

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日系史は私の「パートナー」

私の日系史研究は、今年で7年目を迎えました。この7年間、私はマンザナーやツール・レイクに足を運び、オーラル・ヒストリーに取り組み、JAリビングレガシーの活動に参加するようになりました。さらには、ディスカバーニッケイのユーザー、ニマ会の一員としてエッセイを書いてきました。

日系史研究をやっていると、そのきっかけに関する質問を受けることがあります。その度に私は、「『さらばマンザナー(Farewell to Manzanar)』を読んだのがきっかけです。」と答えています。

しかし、もっと大切な理由があるのです。これには、私自身のアイデンティティが関係しています。今回はそのことについて書いてみたいと思います。

私はハパです!そして、私は日本人です!私は、日本の国籍を持っています。

私は、日本人です。
私は、日本語を話します。
私の名前は、日本名です。
私の父親は、日本人です。
そして、私の母親は、漢民族で、内省人の台湾人です。

日本社会では、私のように外国出身の親を持つ人々は、ハーフ、あいのこ、さらには混血児と呼ばれています。しかし、差別や偏見の意味が含まれていることが多いこれらの言葉が使われることに、私は強い抵抗感を感じます。そのため、私が自己紹介をするときは、「ハパの日本人」、「台湾系の日本人」、「台湾にルーツをもつ日本人」、という表現を使います。特に、私はハワイ語を使ったハパを好んで使います。ハパはハーフのように差別や偏見を意味した言葉ではないからです。

子供の頃、私は学校で「唯一のハパ」でした。学校では、他の生徒たちからとても異質な存在としてみられ、よくいじめの標的にされました。先生の中にも、私を奇異の目で見る人がいて、他の子と同じように私に接してくれたのは、ほんのひと握りの先生たちだけでした。この背景には、管理教育という当時の日本の子供たちに対する教育方針、かつての日本の帝国主義や植民地政策、そして一部の日本人による、台湾に対するネガティヴな印象があったことは言うまでもありません。かつての日本社会においては、国際結婚やそれによって生まれた子供たちに対するネガティヴな印象があったのです。

私は何も知らない小さな子供でしたが、このような冷遇を受けるのは、私がハパであるがための、ある種の宿命のようなもの、変えることのできない運命であると感じていました。

「ココロの武器」としての歴史の勉強を起点にして

そんな幼少時代を送った私ですが、好きなものが二つありました。ひとつは音楽です。子供の頃から音楽の勉強をしていて、ピアノが得意でした。ちなみに、今でも私はピアノを弾くことがあります。そしてもうひとつが、社会科の勉強でした。社会科は私の得意科目で、公開模擬試験では常に優秀な成績を修めていました。勉強の面において、得意分野を持つことで自分に自信を持つことができるようになりました。

しかし、楽器が演奏できるとか、社会科の成績が良かったからというだけで、自分に自信を持てるようになったというわけではありません。私は日本史を学ぶことで、日本人のことや、日本社会の成り立ちをよりよく理解できるようになり、自分のルーツに関わる疑問点が少しずつ解けるようになったからです。私はハパであっても、他の日本人と同じ存在、すなわち自分も日本人であることを認識できるようになりました。ハパの日本人である私にとって、日本史の勉強が自己確立、つまり日本人としてのアイデンティティを育てるのに大きな役割を果たしたのです。

渡米とアイデンティティの確立へ

日本では音楽と歴史の勉強に時間とエネルギーを注ぎ、自己確立に努めてきた私は、2002年にアメリカに渡りました。渡米当初は英語の勉強が大変で、自分のアイデンティティについて特に意識していたわけではありませんが、自己紹介するときはいつも「私は日本から来ました。父親は日本人ですが、母親は台湾人です。」と言うようにしていました。

私が、ハパのアイデンティティと真剣に向きあうようになったのは、当時お世話になっていたハパの講義を担当する人類学の先生にゲストスピーカーを依頼されたことがきっかけでした。それまで、私は自分自身の経験を話す機会がなかったので、どのような話をすればよいのか迷ってしまいました。結局、ハパであるがゆえに受けた日本の学校での差別体験などについて話しました。講義に参加していた学生たちは、私の話を熱心に聴いてくれました。それは、私にとっては、非常にうれしいことでした。そのクラスには、ハパの学生たちもいて、授業後にいろいろと話をしました。

その日のことは、今でもよく覚えています。私はハパであることを歓迎されたのです。個人的な経験も含めた見解ですが、日本社会では、ハパは恥ずかしい存在、または認知されていない存在であり、ハパに対して「言うべからず、問うべからず」という風潮があると私は感じていました。しかし、この日、私はアメリカ社会のハパに対する寛容さを実感したのです。そして、この日を境に私は自分自身がハパであることを、はっきりと表明できるようになりました。

日系史との出会い

私は、しばらくは英語の勉強に明け暮れていました。私が「さらばマンザナー」を読んだのは渡米後1年ほど経った頃でした。それまでは、私は日系史について学ぶことは一切ありませんでした。そのため、「さらばマンザナー」によって、私自身の目を開かされたことは非常に新鮮なことでした。それと同時に、日系人の歴史の中に自分の体験と共感できる何かを見出せるのではと思うようになりました。

私が初めてマンザナーに足を運んだときに、「マンザナーを憶えつづける(Remembering Manzanar)」というドキュメンタリーを観ました。その冒頭で、「マンザナーにいる理由を母親に聞いたら、私たちは日系人だから(マンザナーにいるのだ)、という単純な答えだけが返ってきた」というジーン・ワカツキ‐ヒューストンさんのせりふを聞き、その瞬間、何か心の中にひっかるものを感じました。そのせりふには、私の幼少時代―私がハパであったから、他の子供たちや先生たちによる嫌がらせにあった―に通じるものがあったからです。アメリカでの日系人の社会的地位と、ハパの日本人としての私の日本での立場が重なったのです。

それ以来、私はまたたく間に日系史研究のとりこになりました。私が特に興味を持ったのが、オーラル・ヒストリーです。さまざまな日系人―帰米と呼ばれる日本で教育を受けた二世の皆様や、従軍の経験のある二世の皆様など―の話に耳を傾けることは、日系史を理解することだけではなく、自分自身のアイデンティティに関する良い問題提起にもなりました。

日系史の「インプット」から「アウトプット」へ

フラトンの大学を卒業し、日本への帰国後も、私の日系史への熱意は変わりません。今年の4月からは、横浜市立大学に籍をおいて、滝田祥子先生の指導のもとで研究を続けています。また、研究だけに時間を割くのではなく、日系史に関する情報や知識を日本人に向けて発信することも積極的に実践しています。ディスカバー・ニッケイへの投稿もその活動のひとつです。また、日本国内の学会のイベントにも参加するようになりました。

日系史研究を重ねていくうちに、「このような歴史は、自分自身だけではなく、多くの日本人にも知ってもらいたい、なんとかして日本人に日系史を理解してもらいたい」と私は考えるようになりました。そうすることによって、日本人がエスニシティというプリズムを通して歴史を理解できること、さらには日本人のアイデンティティについてさらに理解できるのではと思うようになったからです。今では、日本人に日系史を伝えていくことが私の目標になりました。それは、全く信仰をもたない人が、何らかの信仰をもつようになり、その良さを広めるため、布教活動をはじめるのと同じようなものかもしれません。

また先日、滝田先生が「故郷(くに)を失った人々の物語(Caught in Between)」、というドキュメンタリーを紹介してくれました。それは、私と同じように台湾人の親を持つ星野利奈さんが製作したドキュメンタリーでした。これは私にとってひとつ衝撃でした。星野さんはアメリカで生まれたとのことですが、同じような境遇を持つ人々の中に、私と同じように日系史に対する情熱を持っている人がいるということは、大変興味深いことです。

今では、私は毎日のように日系史のことを考えていて、さらには、日本人と日系人の橋渡しのことを考えている生活を送るようになりました。タイトルに書いた通り、日系史は私にとって、まさに「パートナー」なのです。

感謝の気持ちを込めて

私の日系史研究はまだまだ始まったばかりです。それは自分探しのひとつとしてスタートしましたが、今ではこの素晴らしさと魅力を日本人にもどんどん伝えていきたい、また日系史の研究を通して何らかの社会貢献をしたいという気持ちでいっぱいです。それはまるで、谷川俊太郎さんの「春に」という詩の文句に何度も出てくる「この気持ち」のようなものです。

日系史の研究は、日系社会に生きる方々とその社会を支える皆様の協力と支援なしではできません。私の研究をサポートしてくれている、カリフォルニア州立大学名誉教授アート・ハンセン先生とクレイグ・ケイ・イハラ先生、そしてロサンゼルスの歯科医のアーネスト・ナガマツ先生、JAリビングレガシーのスタッフの皆様、日系人の話を日本語で紹介する機会を与えてくれた全米日系人博物館のディスカバーニッケイのスタッフの皆様、私のオーラル・ヒストリーにご協力してくださった皆様、そして各地の日系社会に生きる皆様に、私は深い感謝の意を表します。今現在、私が日系史の研究を続けることができるのも、彼らのような素晴らしい人々のおかげだからです。

私は、今まで出会ってきた皆様とのつながりを大切にするだけではなく、これから出会うだろう人々との間にも、素晴らしいつながりをつくるための精進をしながら、これからも日系史研究を続けていきたいと思っています。

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