Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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ある初老の一世の物語

派米農業労務者事業(カリフォルニア農業研修生)をとおして加州(カリフォルニア)にやってきた鹿児島県出身のYさんは、州南部はアリゾナ州境に近いインディオ(Indio)にある、アルメニア系が経営するブドウ園において、同郷の数十名の仲間たちとともに炎天下のなか一生懸命働いていました。1

ある日のことでした。Yさんは、近隣の農場に、身寄りのない初老の一世がいることを知り、会いに行くことにしました。話を聞いてみると、この人物は、Yさんと同じ鹿児島県の出身でした。そして、Yさんに、みずからの過酷な移住生活を語ったのです。

物心がついた頃から、彼には何か大きなことをやって身を立てたいという、漠然とした思いがありました。20世紀初頭、すでに鹿児島県からは多くの人が、アメリカに移住していました。移住した人のなかには、ある程度の経済的成功を収めた人々や、同郷の女性との結婚のため、日本に戻ってきた人々がいました。

近い将来、自分も外国から戻ってきた人のようになりたいと、この一世はアメリカへの移住を強く願うようになりました。残念なことに、彼はそのような機会に恵まれることがなかったので、運を天に任せ、アメリカ行きの船が出る神戸に行くことにしました。神戸にたどりついた彼は、同じように外国への移住を目論む人と出会い、共に太平洋を横断する船にこっそりと乗りこみました。

何日もの船旅ののち、船は太平洋を横断しました。しかし、たどり着いた先は、アメリカではなくメキシコでした。彼らは、メキシコ行きの船に乗ったのです。船から出た彼らは、北のアメリカを目指し、幾日も歩き、国境のコロラド川を横断し、ついには、アメリカの大地に足を踏み入れることに成功しました。

それから数日後、彼らは、ようやく小さな町にたどり着き、この町にあった農場で働くことになりました。彼らはこのとき、「安住の地」を得たと思ったことでしょう。ところが、この町に着いてからまもなく、彼らはINSの存在を知りました。2

INSは各地の農場に不法就労者がいないか、常に目を光らせていました。抜き打ちで各地の農場にやって来ては、農場で働いている人々の滞在資格を調べることがしばしばありました。不法滞在がばれて、強制送還されてしまうことを恐れた彼らは、この町を去り、新たな「安住の地」を探し求めねばなりませんでした。このときを境に、この一世は一緒にアメリカ入りをした仲間とは、別の路(みち)を歩むようになりました。

「この町にも、もうすぐINSの役人が来るかもしれない」という噂を聞くたびに、町という町を転々としました。加州のみならず、アリゾナやユタ、オレゴンやワシントンなど、彼はどこにでも行きました。

逃亡生活を繰り返していた彼は、十分な貯金をすることが出来ず、故郷の鹿児島に錦を飾ることも出来なければ、生涯の伴侶と出会う余裕もありませんでした。それでも彼は、明るい未来がやってくることを信じて、新天地アメリカで、必死になって一日一日を活きたのです。

そうこうするうちに、日本の真珠湾襲撃を機に日米戦争が勃発しました。多くの日系人が強制収容されましたが、彼は、そのような世の中の流れを知ることなく、ただただアメリカ社会で活きることに精一杯でした。そして、この日、Yさんという同郷の若者と、運命の出会いを果たしたのです。

Yさんは、身寄りのない年老いた彼の話を聞いて、何とかして救ってあげたいと思いました。そこで、ロサンゼルスの総領事館に相談しました。

数ヵ月後、サンフランシスコの総領事館で書記官をつとめていた伴正一さんから、彼のもとに、一通の手紙と、加州の身分証明書が届きました。伴さんは、過去の移民に関する法規を調査し、彼が合法的にアメリカに滞在する資格をもっていることを確認したうえで、読み書きのできない彼に代わって、身分証明書を申請したのです。3

実は、排日移民法が成立する以前に、アメリカに非合法に入国した日本人は、所定の手続きをとることで、合法的にアメリカに滞在することが可能だったのです。戦前の日系人社会においては、非合法にアメリカに入国をした人々への対応をめぐって、色々な意見が交わされました。とりわけ、旅券や査証を持たない立場の弱い人々を私利私欲のために搾取した人々がいたことは大きな社会問題となりましたが、その一方、彼らの救済に奔走した同胞もいました。4

もしも、この一世が、日系人社会とつながりがあったならば、あるいは、読み書きが出来て、アメリカの法制度を知っていたのであれば、INSの魔の手から逃れる人生を送る必要は、まったくなかったと思います。

ようやく身分証明書を手にした彼のその後は、よくわかっていません。きっと、加州のどこかで、「安住の地」を得たことでしょう。

この初老の一世の話を聞いたわたしは、同志社大学の創設者、新島襄先生の存在を、ふと思い出しました。彼も非合法的な手段でアメリカに入国した日本人のひとりでした。20世紀初頭には、密入国をしてでもアメリカへの移住を実現しようとした日本人がいました。彼らの存在は、触法行為をした人々として、簡単に片付けてはいけないものだと思います。旧来の社会制度が残っていた当時の日本社会で、幸せや豊かさを求めた人々の特別な思いが反映されているのだと思います。5

現代の多くの日本人にとって、非合法の海外渡航といえば、近隣諸国からの不法入国者といった、外国人による犯罪行為というイメージが非常に強いと思います。6 しかしながら、日本社会の歴史をひもとくと、密入国という、大きなリスクを背負ってまで、外国に渡った日本人がいたことを、忘れてはならないと思います。そして、密入国を経験した人々のなかには、のちの日本社会に、大きな影響をもたらした人々がいたことも、日本社会の歴史における、ひとつの事実だと思います。

注釈:

1.Yさんによると、この当時の鹿児島出身の若者たちの働きぶりは、地元住民によって高く評価され、この町での反日感情が消えたとのことです。

2. 移民局 “Immigration and Naturalization Service” の略称―2003年に廃止されたのち、市民権・移住局 “United States Citizenship and Immigration Services” に移管されました。

3.伴さんについては、「伴正一さんと戦後の日本政府の移住政策について」を参考にしてください。

4.映画「Lil Tokyo Reporter」にも描かれた藤井整は、密入国した一世の人権擁護に奔走した一人でした。

5.数年前に、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館において、日系人社会の歴史をテーマにした特別展示がおこなわれましたが、その展示のひとつに、愛媛県に住んでいた日本人が密入国に使った船の模型が展示されました。

6.日本国法務省によると、現在の日本国内における非合法滞在者は約6万人で、そのうちの約7割が近隣諸国の出身者です。なかでも「特定アジア」と呼ばれるようになった、中国と韓国からの非合法滞在者が多く、全体の約4割を占めています。

 

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ジャズの調べとともに―ジャズ・ミュージシャン、井原リチャードさん

南加(南カリフォルニア)はブレア市内のレストラン、シーダー・クリーク・イン(Cedar Creek Inn Restaurant)では、金曜日の夜から週末にかけて、レストラン内のバーで、ジャズの生演奏を聴きながら、お酒や食事を楽しむことができます。このレストランでは、地元南加を活動の拠点とする魅力的なジャズ・ミュージシャンたちが、かわるがわる演奏をおこなうので、地元の人々の人気スポットのひとつとなっています。

ある日、わたしはいつもお世話になっている井原先生から、シーダー・クリーク・インに来ないかと誘われました。

「そうだ、タカ、今日の夜、シーダー・クリーク・インに行かないか?弟のリチャードが生演奏をやるんだ」

弟のリチャードさんがジャズピアニストであることは知ってはいましたが、お目にかかったことはなかったので、先生のお誘いを受けることにしました。

リチャードさんは、戦争が終わった数年後、井原家の三男として生まれました。当時の井原家は、アーカンソー州ローワーの収容施設を離れ、シカゴやシンシナティ、そしてクリーブランドなどを転々としたのち、ようやく、住み慣れた南加ガーデナ市に移り住みました。

楽才に恵まれたリチャードさんは、加州州立大学ノースリッジ校(California State University, Northridge)への進学をきっかけに、本格的に音楽の勉強をはじめ、特にジャズに力をいれました。卒業後は、郵便局で働きながら、南加を拠点にレストランやバーで演奏活動を行いました。また、クルーズ船内でのライブ演奏を依頼されたこともありました。

また、リチャードさんは、役者としてテレビ・ドラマに出演したこともありました。SFドラマシリーズ「スライダーズ」(“Sliders”)の第1シーズンの第9話の冒頭における法廷の場面で、判事役を演じました。このときのリチャードさんの姿は、シンプソン事件の裁判を担当したことで知られる、日系三世の伊藤判事(Judge Lance Allan Ito)を思い起こさせる格好をしていました。

約束の時間にバーへ行くと、すでに、井原先生が友人と一緒に、リチャードさんによるジャズの生演奏に聞き入っていました。先生は、わたしを快くテーブルに迎え入れてくれました。

ジャズの調べは心地よく、お酒と食事の味をより一層引き立てるスパイスとなっていました。軽やかなジャズのリズムにのせて、社交ダンスをはじめる人々が、バーの「華」(はな)となって、人々のまなざしを集めていました。先生は友人と、曲のリズムにあわせて社交ダンスを始めました。

わたしはというと、軽快にピアノを演奏しているリチャードさんの方へ向かい、彼の演奏をながめることにしました。

楽しいひと時は、あっという間に終わってしまうもので、音楽に魅了されているうちに、生演奏の時間は終わりを迎えました。

「皆さん、本日も夜遅くまでありがとうございます。最後に、この曲でお開きにしましょう。皆さん、良い週末をお過ごしください。」

そう言ったリチャードさんが、最後に披露した曲はルイス・アームストロングの「この素晴らしき世界」(What A Wonderful World)でした。

I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself what a wonderful world...

わたしはリチャードさんの魅力的な声に脱帽してしまいました。これまで、いろいろな人による「この素晴らしき世界」を聞いたことがありましたが、これほど魅力的な演奏は聴いたことがありませんでした。

演奏が終わると、バーにいたお客さんたちから、大きな、大きな拍手が、リチャードさんに贈られました。多くの人が帰り際に、ピアノの上に置かれた金魚鉢ほどの大きさのガラスのビンに、チップを入れていきました。

そして、井原先生はわたしにリチャードさんを紹介してくれました。

「タカ、弟のリチャードだ。僕の弟はジャパニーズ(日系人)に見えるかな?」

黒い山高帽をかぶり、黒いジャケットを身にまとい、ヒゲを生やしたリチャードさんは、よく見ると、日本人の雰囲気を感じとることができますが、一見しただけでは日系人のようには見えません。しかし、私の目には、リチャードさんは、なによりも魅力的な音楽家という印象をもちました。

わたしは長年にわたってクラシック音楽を勉強してきたので、こんな身近なところで、魅力的な音楽家に出会い、素晴らしい音楽に触れることができたことは、非常に光栄なことです。弟さんを紹介してくださった井原先生には、感謝の気持ちでいっぱいです。

リチャードさんは、今後も、ブレア市内のシーダー・クリーク・インも含め、南加のレストランやバーで生演奏をおこなうとのことです。機会があれば、リチャードさんの生演奏を聴くことをお勧めします。

参考リンク:
シーダー・クリーク・イン(Cedar Creek Inn Restaurant): http://www.cedarcreekinn.com 

 

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伴正一さんと戦後の日本政府の移住政策について

伴正一という名前を聞いてピンときた人は、日本と中国大陸の関係に詳しい人なのかもしれません。伴さんは、1977年から1980年まで中国公使を務め、中国大陸との密接な関係の基礎を築いた外交官のひとりとして知られています。

現代社会における日中関係の功労者である伴さんは、戦後日本の移住政策にも深く携わっていました。今回は、移住と海外貢献いう点において、伴さんが携わった日本人難民の加州への移住と、派米農業労務者事業をとおして、彼の人物像について紹介したいと思います。


伴さんについて

伴さんは1924年に、高知県で生まれました。父親は、地元高知を代表する名士のひとりで、地域社会で尊敬されており、母親は、由緒ある武家の出身でした。

出自のみならず、経済的にも恵まれた伴さんは、地元の名門校、土佐中学校(現在の土佐中学校・高等学校)に通い、海軍経理学校を経て、戦争中は海軍に従軍しました。戦争が終わると、東京大学法学部に入学し、在学中の1948年に弁護士の資格を得ました。

そんな伴さんには、小さい頃から、日本を国際社会に誇れる国にするための仕事に就きたいという、非常に大きな夢がありました。彼の脳裏には、同郷の偉人で日本の近代化の立役者のひとり、坂本龍馬の存在がありました。

28歳のとき、伴さんはすでに弁護士として活躍し、仕事にも恵まれ、家族をもっていました。しかしながら、「現代社会の龍馬」になる夢をかなえるためには、弁護士では不十分であると考え、一念発起して外交官試験を受験したところ、見事に合格しました。伴さんは外交官として新しいキャリアを歩み始めました。


日本人難民の救済

外務省が伴さんに与えた最初の仕事は、サンフランシスコ(以下、桑港)の総領事館において、書記官として勤務することでした。

伴さんが桑港にやってきた50年代初期の日本社会においては、朝鮮戦争による特需景気が好景気をもたらした一方で、ジェーン台風(1950年)やルース台風(1951年)、など、深刻な風水害にも見舞われていました。とりわけ、九州地方南部を襲ったルース台風の被害は極めて甚大で、鹿児島県では、多くの人々が住む場所や仕事を失い、日本政府はその対応に苦慮していました。

そこで伴さんは、アメリカ政府の定めた難民救済制度を利用し、被災者を加州に移住してもらうことを思いつきました。当時の加州においては、農業労働者の不足が社会問題となっていたので、被災者を加州へ移住させることで、両国の問題は解決するだろうと考えたからです。

また、当時の加州では、知事のアール・ウォレンが、日系人の権利保護と、一世のアメリカ市民権取得に前向きな姿勢をとっていたことも、移住計画推進の大きな後押しとなりました。1

1953年、外務省が音頭をとるかたちで、被災者の移住が始まりました。これは、戦後移住の幕開けとなりました。

伴さんが移住者に願っていたことは、1日も早く、現地の社会に適応してもらうことでした。彼らのほとんどが、英語を話すことができず、雇い主とコミュニケーションがうまくいかなかったことから、双方のあいだには問題が発生しました。そのたびに、伴さんは現場に出向き、仲裁者となって問題の解決に努めました。

伴さんが移住者の支援に奔走した理由として、彼が日本政府という看板を背負う立場であったこともあげられますが、アメリカ社会における日本人のイメージ・アップを図りたいという意図もあったと思います。敗戦国であった日本にとって、日本人のイメージ・アップは、日本という国家の国際的信用を高めるために、必要不可欠とされたからです。


農業労務者派米事業

日本人難民の移住がひと段落すると、伴さんは1956年に開始された、農業労務者派米事業を担当するようになりました。2この事業は、アメリカ国内の不況などを理由に、1964年以降は派米農業研修生という形態に変更されましたが、1956年から1964年にかけて、およそ4,000名の日本の若者たちが加州に派遣されました。この間派遣された若者たちは、短農(短期農業労務者)、または、カリフォルニア農業研修生として知られています。

伴さんの主な仕事は、各地の農場経営者や農業組合の要望を受け、必要な数の日本人を派遣し、関係者の相談役をつとめることでした。雇い主には、日系人農場経営者が少なくありませんでした。その多くは、エスニシティのみならず、労働にたいする倫理観を分かちあった日本人を雇うことで、現場での仕事が円滑に進むことを期待していました。

難民移住のときと同様、伴さんはこの事業でもさまざまな問題に直面しました。とりわけ、第一期(1956~57年)に派遣された若者たちによる、北加はスタックトンのアスパラガス農場において発生した労働争議は、始まったばかりのこの事業に、深刻な問題を引き起こしました。

問題となったのは、ユダヤ系が経営する農場で、経営者が若者たちの同意なしに、時給制の報酬を出来高払制に変更したことが、その主な原因でした。アスパラガスが収穫の時期をむかえていないにもかかわらず、若者たちは朝4時にたたき起こされ、収穫作業を強いられました。しかし、肝心のアスパラガスは収穫できず、報酬は出来高払いのため、結果的にタダ働きの日々が続いた、というわけです。

伴さんは、この知らせを聞き、すぐに現地に向かい、農場経営者と雇用条件の改善に向けた交渉をはじめました。しかし、交渉は難儀し、若者たちの一部には、日本への帰国を決意するものも出始めたので、伴さんは、経営者との交渉を続ける一方で、若者たちの説得にもあたりました。

「君たちは、昔の伊藤博文とか、岩倉使節団のような存在だと思う。苦労して、外国に渡り、外国で多くのものを学ぶ。今回の出来事は、経営者側の落ち度があったことは確かだ。しかしながら、こういったことがあったものの、あきらめずに、めげずに、最後まで頑張ってほしい。明治時代の偉人たちは、外国で苦労を重ねたけれども、日本という国を発展させるために、がまんをするときはがまんをして、じっと耐えてきたわけだから、君たちも、そういった人々から学ぶことは、とても大切なことだと思う。」

過去に外国に渡った先人たちの苦労がのちに実を結んだことを例にあげ、若者たちの今の苦労も、いつかは必ず報われると、伴さんは若者たちに強く説きました。

交渉の結果、伴さんは労働条件を一定水準にまで改善させることに成功しました。ごく一部の若者たちは日本に帰国しましたが、大部分の若者たちは、加州にとどまり、ほかの地域の農場などに配属されました。

これら日本人難民の救済と農業労務者派米事業において、その手腕を高く評価された伴さんは、近い将来の日本政府の外交を担う「ホープ」として、みなされるようになりました。


青年海外協力隊の事務局長として

桑港での任期を終えた後、伴さんは日本の外交政策にかかわるさまざまな仕事に携わりました。プレトリアの総領事館(現在は大使館)やイスラマバードの大使館での勤務、移住課での海外移住事情調査、技術協力課における、日本人技術者の海外派遣など、その幅は、極めて広いものでした。

1960年代中頃になると、外務省は国際社会貢献のため、日本の優秀な技術者を、途上国などに派遣するようになりました。これに関連して、伴さんは、1972年から1977年にかけて青年海外協力隊の事務局長をつとめました。当時、極左思想とテロリズムに手を染めた若者たちの存在が問題視されていたことから、彼はみずから面接官となり、エネルギッシュかつ、将来を嘱望された若者たちの人選に携わりました。

伴さんは、優秀な日本人、とりわけ、これからの日本社会の将来を支える若者たちを積極的に海外に派遣することで、国際社会のみならず日本社会に貢献できる人材を育てていくべきだと考えていました。そしてこの考えは、青年海外協力隊事業の発展につながりました。


その後の伴さん

1977年から4年間、伴さんは公使として北京の日本大使館派遣され、中国大陸との密接な関係の基礎を築きました。これにより、伴さんは日本の外交戦略における功労者として知られるようになりました。

公使としての仕事を終えた伴さんは、周囲の支援もあって、政界への進出を表明しました。伴さんは3回にわたって国政選挙に出馬しましたが、いずれも落選してしまいました。外交官としての知名度は高かったのですが、地元高知県での知名度が低かったことが、落選の理由でした。残念なことに、伴さんは、政治家としてのキャリアを歩むことはありませんでした。

2001年5月、伴さんは77歳の生涯を閉じました。この時、天皇明仁、皇后美智子から、彼が事務局長としてリーダーシップをになった青年海外協力隊事務局(現在の国際協力機構、JICA)をとおして、お悔やみの言葉が送られたとのことです。

伴さんとは、「お役人」という立場ではありましたが、国民を国益を得るための「捨て駒」としてではなく、国家とともに歩むかけがえのない存在として認識してしたと思います。伴さんは政治家にこそなれませんでしたが、文字どおり、「現代社会の龍馬」として、多くの人々から尊敬される存在であると思います。


注釈:

1. アール・ウォレンは、戦前のアメリカ社会における「反日主義の急先鋒」として知られていましたが、日本敗戦直後に親日派へと転向したことでも知られています。

2. 農業労務者派米事業は、敗戦直後の日本の厳しい経済事情の打開策のひとつとして、就職や相続の問題をかかえていた農村出身の若者たちを加州へ派遣し、進んだ加州の農業技術を日本にもたらすこと、日本各地の農村におけるリーダーシップの育成、さらには、国内の開墾や海外移住を希望する若者にたいして、開墾や移住に必要な資本を得てもらうことを目的にはじめられました。もともとは、農林省が那須皓や石黒忠篤、加藤完治といった当時の日本の農業政策の専門家らの助言を得て推進していた事業ですが、計画のさなかに外務省が農林省に圧力をかけたため、両省の共同事業として開始されました。

1956年の秋から翌年の初夏にかけて、第一期生の派遣がおこなわれ、北は北海道から、南は鹿児島まで、1万人以上の若者の中から、約1,000人が選ばれました。すでに難民として移住者を輩出していた九州地方では、応募の倍率が数百倍にふくれあがりました。


参考文献

伴正一 『ボランティア・スピリット』 1978年 講談社

公益社団法人・国際農業者交流協会 『農業青年海外派遣事業50年史―草の根大使たちの軌跡―』 2002年 公益社団法人・国際農業者交流協会

福田恵子 「難民として米国移住した日本人たち」 2008年 ディスカバー・ニッケイ

吉岡逸夫 『政治の風格―総理をめざした外交官 伴正一の生涯―』 2009年 高陵社書店

公益社団法人・国際農業者交流協会 機関紙『ニューファーマーズ』

 

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幻となった「日系人駐日大使」提案―井上議員の前に立ちはだかった「日本事情」

日系人を駐日大使に。 

これを初めて日本政府に提案したのは、今は亡き井上建議員(ダニエル・イノウエ)でした。日系人が駐日大使という地位に就くことで、アメリカと日本の双方の国益に結びつくことのみならず、アメリカ社会における日系人の地位向上にもつながると井上議員は考えました。時は1959年、日系人社会は、戦後の復興期からリドレス活動への過渡期にありました。 

駐日大使を選ぶ権限はアメリカ政府が握っていますが、日本政府の意向を無視することはできません。そこで井上議員は、当時の日本の政局における最有力者のひとりであり首相でもあった岸信介に面会し、日系人を駐日大使として東京に送ることを提案しました。

井上議員は、日本政府がこの提案に反対することはないと考えていました。ところが、岸は彼の提案を一蹴したのです。さらには、岸は日系人にたいする侮辱ともとられる予想外の発言を、井上議員の前でしたのです。

日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップをになっている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた「出来損ない」ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない。

この発言は、井上議員にとっては、極めて屈辱的なものでした。

井上議員は、日系人を駐日大使として東京に送ることによって、アメリカ社会における日系人の地位向上のみならず、日米関係への利点などを力説し、さらなる説得を試みましたが、岸の態度が変わることはありませんでした。結局、井上議員による日系人の駐日大使誕生への夢は、岸信介、たったひとりの手によって粉砕されてしまいました。 

岸が、井上議員の真意を理解できなかったことは、日米両国にとって、ひとつの損失であったと思います。しかし、当時の日本社会には岸のように、日本を離れ海外に出た人々を、いわゆる「棄民」と見ていた人がいました。とりわけ、岸のような、「特権階級」とされる人々のなかには、このような考えを持っていた人が数多くいました。 

さらには、極めて残念なことに、井上議員の右半身が何を意味するのかは、岸にとっては、どうでもよいことだったと思います。1 岸にとって、最も気がかりだったことは「身分」だったと思います。由緒ある武家の末裔、さらには、皇族や旧華族の関係者など、いわゆる「身分の高い人々」がリーダーシップをになっている国の大使に、国を棄てた人やその子供たちがが任命されることは、感情的に許せなかったのだと思います。別の言葉で表現するのならば、岸の移住者にたいする差別意識が、井上議員の提案を粉砕したのだと思います。2

1959年の時点において、アメリカの立場から考えると、日系人を駐日大使として任命する良い時期であったのかもしれませんが、日本の立場でみると、日系人が駐日大使として来日することは、時期尚早であったのかもしれません。

実際に、日本政府が「身分」の問題解決に本腰をあげ、同和対策審議会答申を発表したのが1965年。そして、いわゆる同和対策事業がはじまったのは、1970年のことでした。新憲法が施行されてから、20年以上が経っていました。

歴史を語るにあたり、「・・・たら」と「・・・れば」はあまり歓迎されるものではありません。日系人を駐日大使として任命するという提案は、幻となってしまいましたが、もしも、この提案が数年でも遅れていれば、日米関係をめぐる諸事情は少し変わったものになっていたのかもしれません。

岸が井上議員の提案を粉砕してから半世紀以上が経ちました。日本社会も多様化がすすみ、少しずつではありますが、様々な背景をもった人々が社会に受け入れられるようになってきました。

そして、つい最近ことではありますが、2005年には、セイコウ・ルイス・イシカワ(石川成幸)氏が駐日ベネズエラ特命全権大使に任命されました。井上議員が日系人の駐日大使を誕生させようと試みてから、およそ45年後のことでした。

現在の日本政府においては、岸の孫にあたる安倍晋三が首相に選ばれ、「地球儀を俯瞰する外交」と称した独自の外交理論をかかげ、日本の国益確保のために、各地の日系人コミュニティとの「つながり」の強化を主張しています。この政策は、国際社会における日本の存在感(プリゼンス)の向上を第一の目的としたものであり、これによって、今後、日系人と日本人の関係が、どのような方向性をおびたものになるのかは、未知数の部分が大きいと思います。

また、日本政府の意向とは別に、アメリカ政府においても、駐日大使の人選は、非常に柔軟なものになっていることでしょう。日系アメリカ人が駐日大使として東京にやってくる日は、もしかしたら、意外と近い将来に実現するかもしれません。そのときには、多くの日本人が、日系人の大使を暖かく歓迎することでしょう。

注釈

1. 井上議員は第二次世界戦争の際、第442戦闘部隊の一員として欧州戦線に従軍し、敵国軍との激しい戦闘によって右腕を失いました。

2. 井上議員が岸を訪問した1959年に、当時の皇太子明仁が民間人の正田美智子を皇太子妃として迎えたことが日本社会では大きな話題となりました。多くの日本人がこの結婚を歓迎した一方、一部の皇族や旧華族の関係者らが、皇族・華族出身ではない人を皇室へ迎えることに強い反対の意をとなえました。とりわけ、当時の皇后であった良子(ながこ)は、死の直前までこの結婚に不快感をあらわにし、長年にわたって美智子を冷遇したことが、日本の写真週刊誌や女性週刊誌などをとおして、たびたび報じられました。

 

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「謝る人々」から学べること

加州農業経営者友愛団体の「良心」

先日、インターネットで羅府新報を読んでいたところ、大変興味深い記事を見つけました。

California Grange Apologizes for Anti-JA Prejudice
(邦訳(意訳)「加州農業経営者友愛団体、過去の日系人への反日的行為に謝罪」)

記事によると、加州農業経営者友愛団体(California State Grande)が、過去の活動などを通して行われた日系人への差別的行為に対して、市民協会(JACL)の会長であるデイヴィッド・リン氏(David Lin)に書簡を送る形で、謝罪の気持ちを伝えたとのことです。

州都、サクラメント(桜都)に本部を置く加州農業経営者友愛団体の会長、ボブ・マックファーランド氏(Bob McFarland)は書簡の冒頭、次のように記しています。

「日系人社会の皆様へ。加州農業経営者友愛団体のすべての会員を代表して、私達の過去において、差別的行為など、誇ることのできない歴史があったことに、謝罪の気持ちを伝えたいと思います。」

冒頭のあいさつ文に続き、20世紀初頭より団体が率先してアメリカ社会において反日感情をあおったこと、日系人の権利を制限した数々の法案を成立させるためにロビー活動などを行ったこと、さらには日米戦争勃発直後は日系人を強制収容施設に送ることを支持したといった、過去の団体による「過ち」が綴られました。

そして、ここ最近になって、過去の差別的行為に真摯に向き合うべきという風潮が、団体の内部に見られるようになったことが綴られました。一昨年の2012年には、組織の幹部らによって、日系人社会に謝罪の気持ちを伝えることが決定されました。この決定には、幹部のひとりである日系人のタカシ・ヨギ(与儀)氏(Takashi Yogi)の存在や、地元サクラメントのコミュニティ・カレッジで教鞭を執っていた、サンディ・リンドン氏(Sandy Lyndon)の存在がありました。

マックファーランド会長は書簡の中で、次のようなことも記しました。

「加州農業経営者友愛団体は、過去の日系人への差別的行為を謝罪し、市民協会を通して謝罪の気持ちを伝えます。さらには、私達の組織においては今後、人種、宗教、政治的信条、さらには、性的指向を理由に差別的行為が行われることがないことを約束します。」

記事を読み終えたとき、私は非常に嬉しく、すがすがしい気分になったと同時に、アメリカ社会の「良心」を再認識しました。

アメリカ社会は民族や宗教、さらには性的指向に関連した、さまざまな社会問題をかかえていますが、人々の心の隅っこには常に、真摯さや冷静さというものがあると思います。それこそが、アメリカ人の「良心」ではないかと思わされるときがあります。

日本社会で「居直る」人々の存在

アメリカ人の「良心」を再び目の当たりにした私は、台湾系日本人という立場で、日本人にもアメリカ人のような「良心」があることを、強く信じています。

しかしながら、ここ最近の東アジアにおける歴史認識問題では、一方的に日本人の言い分を主張し、他者への思いやりといった、長年の歴史の中で培ってきた美徳を軽視する日本人が少なくないことに、極めて強い問題意識をもつようになりました。

このような問題は以前より、多くの人々によって議論されてきました。2004年、イギリス生まれの歴史研究者、テッサ・モリス‐スズキ氏(Tessa Morris-Suzuki)が『過去は死なない―メディア・記憶・歴史』を発表し、歴史問題への真摯さの重要性を論じたところ、日本社会では彼女の意見を支持する多くの声と同時に、彼女の主張が日本人を貶めるものであるという一方的な「誤解」が、インターネット経由で広まりました。

日本人が過去の歴史―とりわけ、先の戦争における日本人による数々の戦争犯罪―に対して真摯な態度をとることが賢明であるというのが彼女の主張であって、それは決して日本人を貶めるものではありません。むしろ、過去に対して真摯であることは、日本人の品位を高めることになると思います。そのことを理解できなかった日本人が少なくなかったことは、日本人の歴史を一生懸命学び、日本人のアイデンティティを背負っていることを重要視する立場として、非常に悲しいことです。

また、元産経新聞記者で、在英ジャーナリストの木村正人氏(Masato Kimura)は自身のブログ、『木村正人のロンドンでつぶやいたろう』の中で、この問題に関する記事(「戦争の真実と和解」)を発表しましたが、過去の歴史認識の問題にたいして「居直り」の態度をとるのではなく、ひとりでも多くの当事者との対話を通して、お互いの立場を理解しあうことの大切さを強調しました。その過程において、謝罪をする場面があることは容易に予想できることですが、それは日本人を貶めるための行為ではなく、日本人の「良心」をアピールする行為であることを、私はひとりでも多くの日本人に伝えたいです。

羅府新報の報道した加州農業経営者友愛団体の「良心」は、現代社会を活きる日本人に対する、良きアドバイスであると思います。

 

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