Asako Sakamoto

1998年にメキシコで日本語教師としてスタート、その後、アメリカと日本で、主に日系人を対象に日本語教育に関わる。大学院では、在日日系南米人に関わる諸問題を通して、日本の血統主義について調査、研究。2014〜2017年、JICA日系社会シニアボランティアとしてブラジルへ赴任。現在は、日本国内で日本語教師として活動している。

(2017年10月 更新)

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アマゾンの日系社会

第5回 節目の年と出会い 

昨年、日伯外交関係が結ばれて120年目を迎えたことを記念し、両国で様々なイベントが行われた。ここアマゾンでも各地でいろいろな行事が催され、ブラジル社会にも日本のことがこれまで以上に知られたのではないだろうか。任期中にこのような節目の年が迎えられたことで、私も多くの行事に参加することができてラッキーだった。そして、任地ベレンでは、節目の年はこれだけに限らなかった。

アマゾン日本人移住85周年(2014年)、アマゾニア日伯援護協会50周年(2015年)、パラー日系商工会議所30周年(2015年)と、この1年半で三つの記念式典に参加した。私にとってこれらは派遣先でのイベントというだけでなく、人との出会いにも関係し、強く印象に残っている行事である。

ベレンに着いて1か月ほどたったころ、初めて、郊外の町トメアスーへ日本語学校の授業を見るために出張に行ったときのこと。アマゾン第1回移民の山田元さんと偶然お会いし、お話を伺うという機会に恵まれた。山田さんは、1929年に移住された中の数少ない生存者のお一人である。

第1回移民(山田さん一家を含む43家族189人)が到着したのは、トメアスー移住地(旧アカラ植民地)である。戦前に2104人が入植したが、当初の目的だったカカオ栽培はうまくいかず、マラリアの蔓延などにより大半が転出。戦後は胡椒栽培で移住地は大きく発展した。1950年代後半の全盛期には、山田さんもかなりの収穫があったそうだ。しかし1970 年代の病害で、転作した。山田さんに限らず、良くも悪くも胡椒で生活が大きく変わった方は、非常に多い。1950年代から1970年代にかけては、トメアスー以外にもベレンをはじめ北部の各地域に多くの日本人が入植、現在のアマゾン日系人人口は約5万人と言われている。

その半数以上が居住する北東部は、日系の医療機関も充実しており、日本語が話せる医師やスタッフを揃える病院や老人ホームがある。総括するのが、昨年、発足50周年を迎えたアマゾニア日伯援護協会。1965年に日伯協会事務所の一室を借りて、「アマゾニア日本人移民援護協会」という小さな診療所からスタート。1972年に公益団体として認可された後、1974年に現在の名前になった。ベレン市内でアマゾニア病院、トメアスーで十字路アマゾニア病院、ベレンの隣町アナニンデウア市で厚生ホーム(老人ホーム)を運営する。慣れない土地で暮らしていると、病気になったときほど心細いことはないが、日本語の通じる病院があると安心だ。

アマゾニア病院の医師で汎アマゾニア日伯協会の会長でもある生田勇治先生には、何度か診察をしていただいた。協会事務所と私の配属先が同じ建物にあり、先生とはよくお会いし、事務所内で薬を紹介していただくこともある。以前、息子さんが日本へ研修に行かれたとき、日本語の授業を私が担当したこともあり、生田先生には特別な縁を感じている。

パラー州には、どこの町へ行っても必ず見かけるものがある。“Y.YAMADA”というスーパーだ。山田フェルナンドさんが経営されており、彼で三代目となる。その彼が2009年から会頭を務めるのがパラー日系商工会議所。1985年に創立され、初代会頭は父の純一郎さん。当時の会員数は30社だったが、現在は55社。会員のために、政府とのコンタクトの仲介役となったり、経済情報を送信したり、講演会・セミナーを実施したりするのが、主な活動である。

フェルナンドさんには赴任当初からお目にかかることはよくあったが、あのスーパーヤマダの社長で、全伯スーパー協会の会長でもある方に話しかけるのは気後れし、何度もそのチャンスを逃していた。勇気を出して話しかけたのは、こちらへ来て半年ほどたってからである。それからは、いつも穏やかな笑みを浮かべて声をかけてくださるようになり、30周年記念式典にも招待していただいた。歩み寄ることが人間関係を築く第一歩だと、今、改めて思う。

こちらへ来ていろいろな行事に参加してきたが、なかでもとくにこれら三つの式典参加は、縁があって出会った方たちと一緒に、長い歴史の節目の年を祝ったことで、私にとって特別な意味を持つものとなった。と同時に、これらの行事を通して、みなさんとの縁を再認識させていただくことができた。

こういう場でまた新たな出会いが生まれ、人と場が重なり合っていくことで絆は広がっていく。あと半年の任期でどこまで広がりを見せるのか、それが楽しみだ。 

 

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アマゾンの日系社会

第4回 開拓者から企業マンへの軌跡 

「近いうちに、一杯やりませんか」と誘われて、日伯協会の方や同期ボランティアも一緒に1か月に1回は会う飲み仲間でもあり、ブラジルで出会った数少ない友人の一人でもある須藤忠志さん。あまり飲まないが、飲ませるのはうまい。182センチの長身で、目尻が少し下がったとても優しい顔立ち。「もてるでしょう?」と聞くと、「そんなことないよ。昔は仕事一筋だったしね」と。若いころの写真を見せてもらったが、かなりの美男子。相当もてたはずだが、「仕事一筋だった」というのはあながち嘘ではないだろう。なにしろ彼は、61年前に来た戦後移民。ブラジル社会で生きていくために、私になど想像できないほどの苦労をし、必死に働いてきたに違いない。

須藤さんが大学4年生だったときに、父親の「ブラジルへ行く」という一言で、一家で移住したのが1954年。大学も卒業したかったし、その後の計画もしていたが、「ブラジルへの憧れもあった」とのこと。幼少期を過ごした上海では、新聞販売業を手広く営んでいた父親。「ブラジルでも一旗揚げたいと思っていたのだろう」と、遠くを見つめて言う須藤さんの目の先には、入植したボリビアとの国境の町、ポルトヴェーリョの景色がある。数回訪れたことがあるが、時期によっては40度まで上がる。内陸に位置し、川沿いのベレンよりも暑く感じる。赤土が舞うたびに、「移住者の方たちは、先の見えないここの生活をどんなふうに過ごしていたのだろうか」と想像をする。

上野高校でも、早稲田大学でも、バスケットボールに熱中した都会暮らしの青年が、山刀やら斧やらを持って原始林に入り自分たちの家を造ったり、芋やトウモロコシの植え付けをしたりした。もちろん、マラリアにもかかった。植えたゴムの木が燃えてしまったこともあり、夜空を見ながらそこにもたれて座り、「ここで何をしているのだろう」と考え始めたのが、入植してからちょうど3年がたったころだった。都会で別の職に就いたほうがいいと言う兄二人の勧めもあり、彼だけがベレンへ行くことになった。

3000キロの船旅をして移った先で、その後、勤務することになる会社の経営者である辻小太郎氏と出会った。戦後のアマゾンで移民を再スタートさせた立役者として有名な辻氏は、ジュートを扱う商社を持っていた。そこで働かないかと誘われ入社、経営のノウハウを学んだ。のちに、視察のために会社を訪問した、現三井物産の子会社の支店長で、大学の先輩でもある岡田徳太郎氏に呼ばれ、ブラジル物産(現三井物産)ベレン支店で働くことになったため、3年で辻氏の会社を辞めた。

しかし、「帳簿の付け方もわからない僕を拾ってくれた辻さんには感謝している」と言う須藤さん。30年以上勤め、取締役にまでなった企業(現三井物産子会社である三井食品)での経験の礎は、「辻氏と汗水流したアマゾンでの3年間があったから」。私が活動している北伯日本語普及センターがある建物の入り口には、辻氏の銅像がある。アマゾン移民の歴史の生みの親とも言える辻氏が、今の須藤さんを見たら驚くだろう。82歳で会社設立、サンパウロや日本へ出張に行く現役会社員なのだから。

「はい、新しい名刺」と渡され、日本にアサイーを輸出する会社を開設したことを聞き、思わず「まだ働くんですか!?」と言ってしまった。「この年になって頼りにしてもらえるというのは、ありがたいこと。それに、昔の仕事魂がまたフツフツと湧いてきてね」と話す須藤さんを見て、「ブラジルで一旗あげたいと思っていたお父様にとって、自慢の息子だろうな」と、心境を勝手に思い描いた。「タイミング良くいい人に出会える運に恵まれていた」とはいえ、それをモノにする須藤さん自身の力量も否定できない。ポルトヴェーリョの未開の地を開拓するのに毎日を費やしていた青年が、大手日系企業の取締役となり、傘寿を超えても現役でいる、そのエネルギーと精神力には頭が下がる。

帰化している須藤さんだが、「あなた」を「貴女」、「私」を「小生」と書く、昭和一桁生まれの日本人。

ブラジル社会で生き抜いてきた須藤さんも、毎年、日本で会う高校時代の同級生の話をするときは、本当に幸せそう。心の奥底には、ゴールを目指してボールを追いかける自分の姿があるのだろう。人生のゴールは遠い先。アマゾンの開拓者はこれからまた、自分の道を切り開いていくのだろう。

 

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アマゾンの日系社会

第3回 夏祭り

「今年も盆踊り、参加できる?」婦人会の会長さんからご連絡をいただき、あれから1年がたったことを実感した。昨年、ベレンに赴任してまだ2週間ぐらいしかたっていないころ、誘われるままに参加した夏祭り。行くのにどのくらい時間がかかり、どんな催しが行われ、何人ぐらいの人が参加するのか、何もわからず、会場へ連れていっていただいて、ずっと盆踊りの輪の中に入っていた。また、参加者がとても多くて、ブラジルの日系社会の大きさを感じたのを覚えている。以前住んでいたメキシコでも、一大イベントである母の日のパーティーにはたくさんの方が参加され、とても盛り上がっていたが、日系人の数が2万人のメキシコと160万人のブラジル(平成26年現在「海外日系人協会ホームページ」)とでは、その様相が異なるのは言うまでもない。

夏祭りは、1980年代中頃から毎年行われている。日本文化を広める、文化協会の資金集め、会員どうしの親睦、などが目的で、老若男女が一同に会する大きな行事だ。飾り付けに使われる紙の花、販売される饅頭や漬物、お弁当などは、すべて婦人会の方々による手作り。日本語学校の生徒たちが描いた絵は、行灯に使われる。驚いたのは、看板とすべての飾りを毎年作っていること。暑くてとても湿度が高いという土地柄、保管しておくと、色が変わったりカビが生えたりしてしまうそうだ。

午前中にある日本語学校の授業は、後半を使って、幼児以外の生徒全員、先生と一緒に祭りの準備を手伝う。嫌がる子どもは一人もいない。中学生の男の子は脚立に乗って行灯つけ。それを手伝う小学生。女の子は櫓の柱にテープを巻く。自然と役割が分担されている。会館へ行くと、台所で大勢の婦人会メンバーが販売用の商品を作っていて、とても賑やか。昼食もそこで用意されており、準備を中断して一緒に食べる。こうして30年以上、毎年みんなで祭りを作っている。行事を通して、大人から子どもに「日本」が受け継がれていく。一つのテーブルを囲んで、笑い声が響き合う。幼いときからこの社会で暮らし、何か催される度に集まる。先生の言葉を借りるなら、「みんな家族のようなもの」なのだ。

こういう機会には、いつも、お互いのつながりを感じてきたのだろう。それは日本につながりを感じることでもあり、自分のアイデンティティを確認することでもあったのだと思う。一人ひとりのこの確認は、日系社会の存続に大きくかかわる。所属する人たちがルーツを意識することは、日系社会が「日系」社会としてあり続けるために大きな意味を持つからだ。また、日系社会の存在は、ブラジル社会の財産にもなる。多くの日系人が、政治家、医者、大学教授などになり、ブラジル社会の中で活躍している。そしてそれは、政治的、経済的、文化的にブラジルと日本の関係強化に貢献することになり、日本にとっても有益だと言える。

ブラジルで日本語教師をしていると、「継承日本語教育」という言葉をよく耳にする。日系人を対象に、日本語を含めた日本文化全般を継承していくことを目的に教える日本語教育を指す。日本語の授業の一貫として夏祭りの準備をすることは、まさにそれに当たる。夏祭りという文化行事に参加するだけでなく、生徒一人ひとりが準備段階から携わることで、それぞれが日本につながりを感じながら、親から子へ、子から孫へ、その思いが継承されていく。そうして日系社会の未来が形成され、ブラジルの社会資源となり、日本社会の発展へとつながる。

祭りの開始時刻から参加して、ただ盆踊りの輪の中に入って踊っていた昨年とは違って、準備の時間から見せていただいた今年は、日系社会の輪の中に入って踊った、そんな気がした2年目の夏祭りだった。

 

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第2回 日本語教育

1895年に日本とブラジルの外交関係が結ばれて、今年で120年。これをきっかけに、文化・芸術・経済など様々な分野で両国の関係強化が図られることになり、ブラジル各地でいろいろな記念行事が開かれている。先日ベレンであった毎年恒例のブックフェアでは、テーマ国の日本の文化紹介が行われた。また、120周年記念式典も催されて、シモン・ジャッテーネ州知事より、14の日系団体と企業に勲章が贈られ、私の配属先である北伯日本語普及センターにも勲章が授与された。北伯(ブラジル北部)での長年にわたる日本語教育を讃えられたことは、関係者全員にとってとても喜ばしいことだろう。とくに、これまでの北伯日本語教育の歴史を築いてこられ、今も最前線で活躍されている1世の先生方には、ご苦労が報われた思いであったのではないだろうか。

戦後に移住してこられた1世の先生方は、子どもたちに日本語を含む日本文化を継承するためにと、日本語学校を創設、国語教育を始めた。しかし、2、3世がブラジルの教育を受け日本語を使わなくなるにつれて、様相は外国語として教える日本語教育へと変化していった。日本から専門家を呼んで日本語教育を学び始め、各地の学校の取りまとめをする機関として、1993年に設立されたのが北伯日本語普及センターである。当初の会員校の生徒総数は約1300名。1990年代にブラジル全土が見舞われたハイパーインフレで、日本への出稼ぎ者が増加、次第に生徒は減っていった。

それから22年、少なくなった生徒数は昨今の日本ブームや日本企業進出で徐々に持ち直してきて、現在は1231名、そのうち非日系は74%。非日系の教師は21%で、ここ数年、日本に関心を持つブラジル人が増えている。彼らの日本語学習を始める動機は、ほとんどの場合がアニメで、興味の入口は「ジャパニーズカルチャー」、その後、さらに奥深い「日本文化」へと移っていく。 

ここの日本語教育の特徴は、2世が中心の南部と異なり、戦後に移住された1世の方が現役であること、そして、出稼ぎで親と日本へ行って、義務教育を終えて帰国した3世が教えていることだ。彼らの多くは大学で勉強したり他に仕事をしたりする傍ら、自分の特長を活かして日本語教師をしている。しかし、将来ずっとこの仕事をしていくのは経済的に難しいだろう。ここの特色としてもう一つあげられるのは、結婚を機にブラジルへ来た、40歳前後の先生方の存在。次世代として1世から引き継ぐ、大きな担い手である。

昨年の8月、安倍晋三首相がブラジルへ来られたとき、「JICAボランティアを100名に増やす」とおっしゃった。とくに、文化・スポーツ面での支援を強めていきたいということで、日本語教育も含まれる。それには、ブラジル社会への日本文化普及が視野にあって、ブラジル各地で行われている様々な120周年事業は、大きな効果をもたらしているようだ。

今回のブックフェアでは、茶道・生花・琴・折り紙など、多くの日本文化が紹介されたが、私が担当させていただいた書道もその一つである。10日間の開催期間中、1回2時間のコマを3回行ったが、どれも予想以上の申し込み者数だった。初回の参加者が後で手伝いに来てくれたり、書道を教えた巡回先の学校の生徒も来てくれた。初めて筆を持つという人がほとんどで、一画一画を緊張しながら書いていたが、想像よりも上手くて驚いた。何よりも嬉しかったのは、多くの人が興味を持ち、初めての体験にとても満足していたこと。ブラジルの方たちに喜んでもらえたことは、ブラジル社会への日本文化普及の一端となり、120年の歴史の一片になったのではないかと思う。

贈られた勲章は重い。センターに派遣されたボランティアとして、これからも貢献していきたい。

 

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アマゾンの日系社会

第1回 プロローグ

昨年の8月、ブラジルのパラー州ベレン市にある北伯日本語普及センターに、JICA日系社会シニアボランティアとして配属になった。このセンターは、日伯協会、日系商工会議所と同じ建物の中にあり、活動初日から、多くの日本人・日系人の方々に会ってきた。

ブラジルへ来る前から聞いてはいたが、これほどまでに日本が残っているとは想像していなかった。「残っている」のではなく、「日本がある」と言ったほうがいい。それは、日本語の使用率の高さからも言える。ここで活動していて、ポルトガル語を話さない日はよくある。訪ねて来られる方はほとんど日本語が話せるからだ。そして、その多くが一世である。

ブラジルに初めて日本人移民が来たのは1908年。しかし、1900年初頭に、ペルーに移住した日本人が、アンデスを越えてアマゾン地方にすでに住み始めていた。俗に、「ペルー下り」と言われている。日本からの移民がアマゾンへ移ったのは1929年から。この年に来られた方で、まだご健在なのはわずかお二人だけである。多くの一世は、戦後、1953年以降に来られた方たちだ。

私が知っている中で最高年齢は84歳。私のカラオケ仲間で、日舞もされるとても元気な女性である。最近、自分の会社を立ち上げた82歳の男性も飲み仲間だ。会社を経営され、日系社会でも第一線で活躍されている70歳代後半の方もいらっしゃる。とにかく、みなさん本当にエネルギッシュだ。そういう方たちが引っ張っておられるので、ここの日系社会が元気なのも納得できる。

一世が多いから、日常的に日本語が話されるのは当然である。また、たくさんの方が一世同士で結婚されており、その間に生まれた二世の日本語能力が高いのは言うまでもない。そして、流暢に話せる三世が多いことにも驚かされた。1980年代後半から1990年代にかけて起こった日本への出稼ぎブームで、幼いときに親と一緒に渡日、そこで育って、またブラジルへ帰国した人たちだ。世相を反映した興味深い状況である。

こういう人たちの強みは、ポルトガル語も日本語もネイティブのように話せることだ。それを活かして日本語を教えている人も少なくない。戦後にやってきた一世、ここで生まれ育った二世、社会の波とともに二国を行き来した三世、それぞれの背景が映し出す彼らの姿は「三世三様」だ。

戦前に来た一世から引き継がれた二世・三世が、中心になっている南部とは異なり、ここは、一世が現役で活躍されている。また、私が以前住んでいたメキシコの日系社会と比べても、様子はまったく異なる。一世が多く、日常生活に日本語が根付いている。もちろん、この「日本」はブラジルの中の「日本」で、日本とも異なる。食事、習慣、生活様式、言葉、様々な点で違う。それは、ここの日本人が築いてきた文化であり、それによって支えられてきたのが彼らの日系社会なのだ。

昨年のW杯ブラジル大会が開催されていたとき、日本で日系ブラジル人を取り上げた番組を見ることが何度かあった。W杯を機に、多くの人が日系ブラジル人のことを知る良い機会になった。しかし、彼らの歴史には触れられず、仕事を求めて渡ったがうまくいかず苦労した人たち、ブラジルにいるが心は日本人で日本チームを応援している、と一括りで語られることに辟易した。ここに築かれたものは、もっと深くて大きい。アマゾン河のように、どっしりとした揺るぎのないものだ。

このサイトでジャーナルを投稿することができる、良い機会を与えていただいた。私の任期はあと約1年半。この間に、ここの日系社会にどっぷり浸かって、日本では体験できない「日本」を味わい、私なりの視点で感じたことをお伝えしたい。それが、読者にとって、新たな発見「ディスカバー・ニッケイ」になれば幸いだ。そして、その体験をまたどこかの地で活かしながら、違う角度から「ニッケイ」について語ることができたら嬉しい。

 

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